一般に「往生」という言葉は、冬季に「豪雪のため車や電車が立往生した」とか、誰かが亡くなられた時に「往生されました」、あるいはどうにもならない状況に陥って困り果てた時に「往生しました」等という表現で用いられたりしています。けれども、この言葉は本来仏教語で「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれること」を意味し、世間一般で使われているような「行き詰る」「死ぬ」「困り果てる」といった意味は全くありませんでした。
言葉の成り立ちから窺うと、「往」は「往く」、「生」は「生まれる」「生きる」「生む」ということ。言い換えると「誕生する」「生きていく」「生産する」という極めて能動的な言葉で、死んだり困ったりするという意味は見いだせません。この「往」と「生」が繋がると「往き生まれる」となります。つまり、往生とは「生きること」であり、「生きるという積極的実感を持つ」ということであり、さらに「新しい自己を生み出す」という能動的な生き方であることが明らかになってきます。そうすると、「往生」とは、一日一日が新しい世界へ往く歩みであり、その内実は一日一日が新しい自己の誕生に他ならないということが知られます。
ところが、事実としては、私たちは生まれた瞬間から死に向かって歩き続けています。そのような意味では「往死する人生」ということもできます。したがって、亡くなった時に「往生した」と言わず、「往死した」ということであれば、あるいは「そういう言い方なら成り立つかもしれない」と思ったりもします。
けれども、もしそれが人生のすべてだとすると、私たちの人生は「生きている」と言っても、その内実は年齢に関係なく、誰もが「日々刻々と死の瞬間に向かって歩みを進めている」というだけのことになってしまいます。そうすると、「生きるとはどのようなことですか」と問われた場合、「死に向かって進んで行くことです」と答えざるを得なくなってしまいかねません。
ここでの大きな問題は、事実としては誕生の瞬間から刻一刻と死に向かっているのだとしても、そういう事実の中にあって、「生きる」ことの積極性を確かに見出すことができるかどうかということになります。それは「生まれること」とは、単に肉体の誕生することの説明語ではなく、「生まれる」ということが「生きること」の内容となってこそ、初めて私たちの一生は、事実としては確かに死に向かって歩いているのだとしても、その中身は「生まれる」という事実を刻一刻と生きていくことになり、いのちの終わる時まで「生まれる」という事実を生きていくことになるのです。
具体的には、「人間には悲しみや苦しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われますが、悲しみがやってくれば、悲しみを通して、それまでの悲しみを知らなかった時の自分ではなく、悲しみを知った自分に新しく生まれるのであり、苦しいことがやってくれば、苦しいことがなかった時の自分ではなく、苦しいことを引き受けていくような新しい自分に生まれるのです。そのような人生の在り方を、まさに「生まれていく生」というのです。
そして、常に生まれ続けていって、いのちの終わる時、すなわち死の瞬間が一番新しい自分になってその「生」を全うしていく。そういう人生が、親鸞聖人が教えてくださった「往生」ということの本来の意味なのだと思います。
肉体の事実としては、毎日死に向かって歩いているのだとしても、いのちの終わるその瞬間まで生まれ続けていく。悲しみや苦しみや、いろんな経験のなかの煩いや時には死にたくなるような思い。そういったことのすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちの終わる瞬間まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって「本当に生きてよかった」と言える自分となって死んでいけるような人生。それが「往生」という歩みです。
このような意味で、浄土真宗の教えを学ぶということは、つまるところ「生きるということは生まれることだ」ということを学ぶことだといえるのではないかと思われます。
また、「浄土」とはいったい何かというと、私たちの現在の境涯から見て、一般に「天国」という言葉で語られるような、漠然と思い描かれている何かよいことが待っているであろうと期待される、いわゆる理想郷とかではありません。私たちの人生は、今はこのようであるけれども、この一刻あとにはどういう現実がくるかわからないというのが紛れもない事実です。
しかし、どのような現実がやってきたとしても、そのやってきた現実の中に新しい意味を見開いてゆく。そういう生き方に立ち返るということがあれば、浄土というものは私たちが未来に夢みる単なる理想の世界ではなくして、むしろ刻一刻と生きてゆく中に開かれてくる世界なのだといえます。
言葉を換えれば、彼方から私たちを迎えてくれるような世界、そういうものが本当の浄土なのです。したがって、浄土は決して理想郷でもなければ夢の世界でもありません。自分自身の生きている現実を見定めたところに彼方から開けてくる、そういう境地を浄土として教えられているのです。
そういう生き方に私たちが目を開いたとき、本当に人として生まれて良かった。私が私として今ここにこうして生きているという事実に満足できるという世界が開けてきます。どんな生き方をしていても、たとえ明日何が起きるか分からなくても、私はその中を生きてゆき、そこに本当の自分というものを見出していける生産的な人生を生きてゆくことができるのです。それが、浄土へと日々新たに生まれ往く、往生の歩みなのだといえます。