2022年9月法話 『往生 浄土へと日々新たに生まれ往く』(前期)

今月は秋のお彼岸を迎えます。お彼岸と聞けばおそらく多くの方々が、先立たれた懐かしいお顔を振り返りながら自ずと両手が合わさり自然と頭が垂れる、古来より日本に根付く「仏教週間」といってもよいかもしれません。

亡くなった日のことを私たちはご命日と呼んできました。故人の命日に合わせて年忌の法事をお勤めしたり、大切な人を失った辛く悲しい別れの日、あるいは生涯忘れられない1日としてその日を迎えたりされる方も多くおられることと思います。

命の終わった日ですからもちろんそう呼ぶことに異論はありませんが、ある先生のお話にとても心を動かされたことがありました。

私たちは、どうしても亡くなったことばかりに意識を持ちすぎてしまいますが、その先生は「ご命日は、仏さまの命をいただいて新たに生まれていかれた日ですよ」と教えてくださいました。

私はこの言葉に、なんとも言えない温かな感情と、淋しさの中にもホッと安心できる落ちついた気持ちにさせてもらったことを覚えています。また一方で、つい自分の価値観の中だけで物事を見たり感じたりしてしまっている自分の視野の狭さにも気づく思いでした。

仏さまは、「真実の世界に生まれておいで」と呼びかけていてくださいます。この命は、いつの日か間違いなく終わるけれども、それは死にゆく命ではなく、お浄土の仏として生まれ往く命であると。

なるほど。だからこそ、故人を語るとき「生前」という言葉が使われることに、仏教との深い関係性があることを教えられました。

「人は去っても拝むその手の中に帰ってくる」と言われますが、亡き方々も今は仏さまとしてお浄土に生まれ、さらに私の合掌の姿となり礼拝の動きとなり、私の命や心を育んでくださる尊い存在となってくださっておられるのです。

ご命日は亡くなった日ではなく、「仏さまとしての命をいただいてお浄土に生まれていかれた日」と味わうと、ご命日という日がまた違った視点で、有難く思えてくるのではないでしょうか。