お寺の行事にかかせない物の中に「蝋燭(ロウソク)」があります。
仏教の伝来と共に伝わったとされるのですが、電気の光とは違い、ロウソクの明りは、時に不思議な気持ちを与えてくれる瞬間があります。
例えば誕生日。
幼子には、突然電気が消された部屋は不安でしょうが、ロウソクの明りが見え、そして運んでくる人の笑顔が見え、みんなが歌いだすと、何かワクワクしてきます。
明りが消えた部屋に、ロウソクの立てられたケーキが自分の目の前に運ばれ、フッと息を吹きかけた瞬間に、暗闇と芯が焼けた香りが一瞬漂います。
いくつになっても?正に特別な瞬間です。
仏事でロウソクを使用する際には、本堂(お仏壇)を掃除して、お荘厳(飾り物等)を整えて、最後にロウソクへ火を灯し、ご仏前へ供えます。この準備が整ってから法要(法事)や儀式が始まっていきます。
現代では電気が欠かせないものとなり、お寺も論外ではありませんが、大切な儀式ではロウソクの明りのみで執り行われます。
そのような儀式の一つに、僧侶となるための「得度式」というものがあります。京都にある本山本願寺の御影堂(親鸞聖人の木像が安置)にて執り行われるのですが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は9歳でお得度をされ僧侶となられましたが、得度をされた時間が夕刻であったという記録から、現代でも夕方5時頃から儀式が行われます。
時期によっては、日没後になる暗い時間帯であり、御影堂の中はさらに暗くなりますが、建物の中はロウソクの灯りのみです。
ロウソクの灯りを頼りに、厳粛な空間の中で儀式は執り行われます。
この光景は僧侶となる儀式であり、誰もが忘れることのない光景となります。
さて、世界的に知られている平和活動家でもあるベトナム人僧侶にティク・ナット・ハン禅師という方がいらっしゃいます。(本年2022年1月にご逝去)
ティク・ナット・ハン師はご著書の中でロウソクの比喩を書かれているのですが、私たちは、ロウソクを燃やすとロウがなくなり、炎が消えた時点で、ロウソクは役目を終えたと思います。
しかし師は、「でも、少し考えて見ましょう」と言われ、「ロウソクは燃えている間、光と温もりを与えています。ロウがなくなって炎が消えても、ロウソクが発していた光と暖かさは、世界に広がり続けるのです。」と別の見方を示されます。
私たちは大切な方が亡くなると、私の前からいなくなってしまった。消えてしまったと思ってしまいます。
しかし、ティク・ナット・ハン師の言葉を聞かせていただくと、「ロウソクが発していた光と暖かさのことを考えて見ましょう」と言われます。
私たちは、亡くなった人たちから光と温もりを受けていて、それが今も私たちに影響を及ぼしているのだと言われているのです。
「亡き人が私と仏法との縁となる」
私たちが仏法を聞かせていただく大切な事は、このロウソクの比喩から知ることができるのではないでしょうか。
私は一人で生き、一人で死んで往くのではありません。
自分の目に見える人・物・事から、自分の目には見えない人や物まで、数限りない出遇いが人生を作り上げてくれます。
一緒に過ごす時間が長く、大切に想えば想うほど、失った時の心の整理には時間が必要です。
しかし、亡くなったらそれで終わりではありません。
例え目には見えなくても、私の心や近しい方々の心には、想い出や言葉は消えることなく光を灯してくれます。
忘れていたとしても、ふとした瞬間に思い出す記憶もそうです。
いつでも、どこでも、どんな時でも傍にいてくださる仏さまが「南无阿弥陀仏」の仏さまです。
どんな命も見捨てることなく、必ず仏とするのだと誓われ、仏となられた仏が「南无阿弥陀仏」です。
仏となっていく命を、私はいただいているのです。
ロウソクに明りを灯すとき、先人へ思いを馳せるとともに、その温かさをしっかりと感じる時間となりますよう、仏法をお聞かせいただきたいものです。
合掌
南无阿弥陀仏