2022年8月法話 『亡き人が私と仏法との縁となる』(中期)

亡くなられた方々は、いったい今どうしておられるのでしょうか。日頃、そういうことをお考えになることがあったりされますか。正直なところ、日々いろいろなことに追われるように生きていると、まさに「我が事だけで精一杯」といったところで、「気が付けば亡くなられた方の祥月命日だった」ということもあったりされるかもしれません。その一方、日本人の慣習として、お盆には直接見送られた方だけでなく、ご先祖の方々にも心をお寄せになられていることと存じます。

さて、今日の社会において、仏事が一般に営まれることの根底には、「気晴らし」に近い感情があるのではないかと思われます。なぜなら、一周忌をはじめ、三回忌や七回忌などのご法事をお勤めした後、ご門徒の方から「これで気が晴れました」という言葉を耳にすることがあるからです。確かに、亡き方のご法事を勤めることを気にかけ続けてこられ、何とか無事に終えることができたので「安堵した」「落ち着いた」といった思いを「気が晴れた」という言葉で言い表そうとされるお気持ちも分からないわけではありません。

けれども、この言葉は言い換えると「安らかにお眠りください」という言葉に重なります。それは、法事を勤めたことによって、亡くなられた方は安らかに眠ってくださるに違いないので、こちらの気が晴れることになるというあり方です。では、亡くなった人たちが安からに眠ってくださると、どうして私の気が晴れるのでしょうか。それは、眠らずにいつも起きておられると、何かの拍子に迷って私や家族に災いをもたらしたりされるかもしれないという不安があるからです。そこで、法事を営み亡くなられた方々を癒すと、安らかに眠ってくださるに違いないので、日々安心して過ごすことができるというわけです。つまり、「安らかにお眠りください」という言葉には、その根底に「安からに眠り続けることによって、私に災いをもたらさないでくださいね」という意味が込められているのです。

毎年、終戦の月とも言える8月には戦没者を弔う催しが営まれ、その中でしばしば「安らかにお眠りください」という言葉が聞かれます。例えば、広島市の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉が書かれています。この碑文の趣旨は「原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」というものだと説明されています。そうであれば、大変申し訳ないのですが、原爆で亡くなられ方々には、安らかに眠っておってもらうわけにはいかないと思います。

それは、人類の歴史を振り返ると明らかなように、これまで地球のどこかで戦火が消えたことなどないからです。私たちは、親鸞聖人が「煩悩成就の凡夫」と言われるように、ありとあらゆる迷いをすべて兼ね具えている存在です。そのため、間違いを犯す可能性を無限に秘めています。確かに、私たち日本人は、先の大戦以降、これまでは何とか平和を維持し続けてきました。けれども、今冬のロシアによるウクライナ侵攻のように、たとえこちらから戦端を開かなくても、相手方から一方的に攻め込まれるような事態が起きるのが昨今の世界の状況です。もしそうなった場合、主権国家としては相手のなすがままに…、というわけにはいきません。

しかしながら、「戦争は政治の延長」なのですから、そのような事態に至らないように最善の努力をすることを決して忘れてはならないと思います。私たちは、まさに条件さえそろえば、いつまた戦火の渦中に足を踏み入れてしまうか分からない極めて危うい存在です。ですから、戦禍で亡くなられた方々には、安らかに眠っておってもらったのでは困るのです。常にしっかりと眼を見開いて私たちの動向を注視し、もしまた間違えそうになったら、その時は思い切り叱りつけていただきたいのです。

それは、戦禍で亡くなられた方だけではなく、自身にとって身近な方々にも言えることです。私たちのあり方や生き方、まさに人生の全体をいつも亡き方々に問い続けていてもらいたいのです。そして、そのことによって、人生の全体が私たちの生きる上での大切な問いとなり、そのことを通して仏法に眼が開かれていくとき、亡くなられ方々は私にとって「諸仏」となるのです。

この諸仏とは、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある方々のことです。亡くなられた方から私の生き方が問われ、そのことが私をしてお念仏の教えと出会わせてくださる尊いご縁となる、そういうご縁となったときに亡くなった方は、私にとって諸仏となるのです。ですから、親鸞聖人は自身が念仏の教え帰依したという一点において、一切の縁ある人々を諸仏と仰いでいかれたのです。そのような意味で、一般に先祖といわれる方々も、単なる自分の血につながる人たちとしてではなく、お念仏の教えに出会わせてくださったご縁として大切にしていかれたのです。

お釈迦さまは、魂があるのか、死後の世界があるのかという問いかけに対して、それは戯論だとして一切答えを与えられなかったと伝えられています。戯論というのは、私がこの人生を生きるということと何の関りもない戯れの議論ということです。私というものを離れて、死んだ人がどうなっているかということを語っても意味がないのです。問題は、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。そして、そのことの意味をよく考えてみて、もし亡くなった人が私にとって、何かうまくいかないことが起こったとき、その責任を転嫁するための、いわゆる愚痴の種でしかなければ、その方が仏さまになっているとは言い得ません。やはり亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなった方は諸仏だということができるのです。それは、私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切が戯論でしかないということです。

大切な人を亡くしたとき、私たちは深い悲しみに包まれます。それはなぜかというと、悲しみの深さは亡き人から贈られたことの重さに比例するといわれますが、まさに亡き方が多くのことを私に贈ってくださっていたからです。そして、亡き方が私たちに贈って下さる悲しさは、同時に私を仏道に向かわしめる尊い機縁となります。私たちは、仏法に耳を傾けることのないまま日々を過ごしているときは、浄土の意義に目覚めることもなく、仏事も気晴らしのひとつとしてしか受け止めることができずにいます。けれども、死別の悲しみをくぐる中で、自らの生き方が問われ、やがてお念仏の教えに出会うと、亡き人が諸仏として仰がれるようになるのです。 簡単なことのようですが、自ら仏法に耳を傾けるということは決して容易なことではありません。遇い難い仏法に遇い、聞き難い仏法を聞くことができているのは、まさに、亡き人が私と仏法との縁となってくださるのです。改めて、そのことを喜び亡き方々に感謝したいものです。