2022年10月法話 『相手の目線でみると違った世界がみえてくる』(中期)

日頃、私たちは世の中の出来事をいつも自分の視点から見て・考えて・判断し、その上で何かを言ったり行ったりしています。その場合、物事の判断を下すのは常に、「我」とでもいうべき自身の内にいる正しい自分であり、したがってその言動はいつの時でも「正しく・間違っていない」と、漠然とではあるものの固く信じています。そのため、例えば誰かと言い争ったりするような際は、「自分は正しい・相手は間違っている」ということを前提に自身の正しさを主張しています。おそらく「自分が間違っている」と分かっていながら、誰かと争う人などいないのではないでしょうか。けれども、果たして私の言動はいつも正しいのでしょうか。もしかすると、「(私の方から見て)私は正しい」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれません。

そのことに気づかせてくれるのが、親鸞聖人が「和国の教主」と尊崇された聖徳太子の「我必ず聖(ひじり)に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ」という言葉です。これは「私は必ずしも道理に通じた聖人ではありません。また、彼は必ずしも道理の通じない愚かな人でもありません。人は共に凡夫にすぎないのです」という意味ですが、今これを争いの場にあてはめると、私たちは誰もが自分は賢く、相手は自分より愚かだとみなし、そのため自身の言動は間違っていないのだと錯覚して、その正しさを主張しているが、「いつも自分だけが正しいわけではないし、またいつも相手が間違っているわけでもない」と、教えておられるのだと理解することができます。

このことを踏まえて、今月の言葉「相手の目線でみると違った世界がみえてくる」を読み返すと、確かに私たちはいつも自分の視点からしか周囲の人々を見ていないので、「相手の目線で見ると違った世界がみえてくる」と言われると、一瞬「そのようなものかな」と思ったりするかもしれません。けれども、果たして「確かにその通りだ」と言い切れるでしょうか。

「相手の目線」の相手というのは、まさに今自分と向かい合っている相手ということになりますが、実のところ私たちはどこまでも自分の視点からしか物事を見ることはできないものです。したがって、相手の目線といっても、つまるところそれは「相手が自分をどう見ているか」ということを私が一方的に推し量っているだけのことになります。そうすると、自分の視点から「相手は自分のことをこのように見ているに違いない」と推察することが「相手の目線でみる」ということになるのではないかと思われます。

仏教では、ものを考えていくということを「観」という言葉で表します。観とは「みる」ということですが、ただみるだけでなく、そこにはみることにおいていろいろと考えるということが含まれています。私たちは、生きていく上でいろいろなものをみて生きていますが、その場合、自分中心の見方に終始しています。そのため、私たちは自分の目で見たことを「確かにこの目で見た」と主張するのですが、所詮その見方は自分の都合の良い見方でしかありません。

蓮如上人は、「聞く」ということについて、「意巧にきく」とか「得手に法を聞く」という表現で、私たちの聞き方の問題点について的確に注意をしておられます。「意巧にきく」というのは、ひたすら教えを聞いているようでも、自分の思いや自分の都合の良いように話を聞き変えて聞いているということで、「得手にきく」というのは、自分の得意なところ、自分関心のあるところだけを聞きかじっているということです。このように、自分の関心のあるところは真剣に聞いて、そのほかのところは聞き流してしまうと、法話というのは全体の流れの中で意味が押さえられているので、つまみ食いのような聞き方をしていたのでは、結局正しく理解することはできないことになってしまいます。

これは、「見る」ということにおいても同じです。私たちは、意巧にみたり得手にみたりしているのです。いつも、「私は確かにこの目で見たのだ」と主張するのですが、意巧にみたり得手にみたりしているだけのことに過ぎないのです。それは、そのものを自分の前において、自分の思いで一方的に見るというあり方に終始しているということです。

これを仏教では「分別」といいます。分別というのは「分けて見分ける」ということで、まず見る私と見られているものに分けます。そして、いつも自分の方から一方的に相手を見ることになります。そのため、そのものは全体の中でいろいろなものと絶えず関わり合いながら生きているのですが、そのものだけを取り出してきて、どこまでも細かく分けて見ていくと、細かに見ていけばいくほど、そのもののすがたはかえって見えなくなってしまいます。

そこで、仏教では「止観」ということを言います。「観」というのはすでに述べたように「みる」ということで、それを止めるのが「止観」です。この場合、何を止めるのかというと、この分別を止めるのです。分別をもって見ることを捨てる。つまり、そのものを自分の前において、こちらの目で一方的に見ることをやめて、そのもの自身になってものを理解しようとするのです。

では、どうすれば、そのもの自身になって理解することができるかというと、例えば禅宗の方が座禅などされるのはそのための試みです。いかに分別を捨てて事実とひとつになるか、その方法として行われているのが座禅なのです。あるいは、断食をはじめとする苦行なども、分別を捨てて、そのものを明らかに見るために行われているのだといえます。

そして、その止観が成就した位を仏教では「見(けん)」といいます。「観」というのは、そのものといかに一つになるかという実践の行為をいい、分別を捨てることができると、私の心の上にそのものが姿を現すことを「見」というのです。私たちが、分別の心で理解しようとすると、その相手はどこまでも遠ざかっていきます。けれども、そういう分別を捨てて心が澄んだ鏡のようになると、そのものが私の上に姿を現してくるというのです。

事実を受け止めるというのは、まさにこのようなことを言うのですが、残念ながら私たちはいつも自分の思いを離れることができず、無意識のうちに私からの一方的な見方でしか相手を理解することができないので、結局は都合のよい見方に終始してしまっていることになります。

そうすると、今月の言葉は、私たちは『相手の目線でみると違った世界がみえてくる』という言葉に出会うと、何となくそのようなことを成しえるように錯覚してしまいます。けれども、そのことに真摯に向き合おうとすると、そこに見えてくるのは自分の思いを一歩たりとも離れることができないまま、意巧に、あるいは得手に相手を見て、分かったつもりになっている自分の愚かさということになるのではないかと思われます。