『追悼』同じ過ちは 二度と繰り返しません

こんにちは。今月のカレンダーには「『追悼』同じ過ちは 二度と繰り返しません」という、重い誓いの言葉が記されています。この言葉が指し示す「過ち」とは、申すまでもなく「戦争」のことです。私たちはこの言葉を前にし、戦争で犠牲になられた数えきれない方々を追悼し、心から「二度と戦争はしない」という非戦の誓いを新たにします。

しかし、歴史を振り返ってみると、私たち人類は「平和を願う」と口にしながらも、争いをやめることができませんでした。「二度と繰り返しません」という固い誓いが、何度も破られてきたのが、悲しい現実です。なぜ、こんなにも悲惨な過ちを繰り返してしまうのでしょうか。

お釈迦様は、私たち人間を、煩悩(ぼんのう)から離れられない「凡夫(ぼんぷ)」であると教えられました。煩悩とは、自分さえよければよいという貪りの心、自分と違うものを許せない怒りの心、物事の真実が見えない愚かさです。この煩悩の火種が、私の心の中で燃え上がると、それはやがて「私が正しい、相手が間違っている」という独りよがりな「正義」となります。そして、その「正義」が国や民族という大きな主語になった時、相手を打ち負かすための「戦争」という、最も悲惨な過ちへと姿を変えるのです。

自分の力で立てた「不戦の誓い」がいかに脆いものであるか。このどうしようもない事実を見つめるところから、私たちの平和への道は始まります。自分の正しさを頼りにするのではなく、そのような私たちをこそ決してお見捨てにならない、阿弥陀如来という仏様の「願い」に耳を傾けていくのです。

阿弥陀如来の願い(本願)とは、「すべてのものを、ありのままに、必ず救う」というものです。そこには、敵も味方も、善人も悪人も、国籍も民族も、一切の分け隔てがありません。争い合うすべての者に対して、「ともに、私の光の中に生きよ」と呼びかけ続けてくださるのが、阿弥陀如来なのです。

この分け隔てのない阿弥陀如来の「平和の願い」を聞かせていただくとき、私たちは初めて、自分の「正義」という小さな殻を破ることができます。「同じ過ちは繰り返しません」という誓いは、もはや私一人の決意ではなく、阿弥陀如来の大きな願いに導かれた、感謝の念仏となっていくのです。南無阿弥陀仏と称える声は、敵と味方の境界線を溶かし、すべてのいのちが共に平和に生きる世界を願う、仏様からの呼び声なのです。