「見えなくなっても、つながりは切れない」
大切な人が亡くなった時、「もう二度と会えない」という思いに胸がしめつけられます。写真や思い出の品を前に涙があふれることもあるでしょう。命日は、そんな悲しみがあの日から何年たったかを数える日、と感じておられる方も多いと思います。
けれども浄土真宗では、命日を「ご命日」と呼び、「大切な方が仏さまとなられた日、お浄土に生まれて行かれた日」として受けとめていきます。姿は見えなくなりましたが、決して私とのつながりが切れたわけではありません。方向が変わったのです。こちら側から手が届かなくなった存在ではなく、向こう側から私を見守り、はげまし続けてくださる仏さまとなられた。そのようにいのちを見て行くのです。
たとえば、夕方になると家の明かりがともります。外から見ると、窓の向こうで家族が笑ったり話をしたりしている様子は、はっきりとは見えません。でも、「あの光の中に、確かに家族がいる」と感じます。お浄土に生まれた方も同じです。その姿は、この目には見えません。しかし、お念仏のはたらきとなって、今も私たちを照らし続けてくださっています。
阿弥陀如来は、「どんな人も見捨てない。必ず救いとる」という願いを立てられました。その願いに抱かれてお浄土に生まれた方は、悲しみや迷いに翻弄されていた私たちと同じ人間でありながら、今は仏さまとなって、同じように苦しむ私たちに寄り添ってくださる存在になっておられます。
ご命日のお参りは、ただ過去の思い出に浸る時間ではありません。仏さまとなられた故人と、今この瞬間に出会い直す大切なひとときです。手を合わせてお参りする時に、「お父さん、今日もありがとうございます」「お母さん、見ていてくださいね」と心の中で語りかけてみてください。それは、離れ離れではない、いつもご一緒なことを感じることのできる瞬間でもあります。
お姿は見えなくなっても、つながりは切れていません。ご命日は、そのつながりをたしかめる日であり、「死んで終わり」ではないいのちの広がりを教えてくれる日でもあります。そのご縁をいただきながら、今日も一日を大切に歩ませていただきましょう。
