平等の逆は差別であり、差別がないことを平等といいます。
このような表現は、元来仏教経典に頻繁に見られます。
お釈迦様は古代インド社会の階級制度としての四姓の平等を説かれましたが、階層の固定化に依存して社会秩序の維持を図っていた時代にあって、その主張は甚だ先鋭、かつ危険であったに違いありません。
しかし実際のお釈迦さまの僧団は、俗権力とは一歩距離をおくことに成功し、その平等の主張も後世に守り伝えられていきました。
そして中国伝来の後、この仏教特有の無差別の思想には、漢訳されて平等の語が与えられました。
涅槃経にも
「一切の衆生は悉く平等である」
と説かれるように、より深化された表現で、しかも普遍的に多くの経典の中で主張されるようになりました。
「平等」
は本来、漢語にはなかった言葉です。
その言葉、その意味は仏教が用意し、そして中国で漢字化され、日本に伝えられました。
日常生活や、あるいは政治・経済・法律などのさまざまな場面で、お互いに同等であることを確認する行為は、現代の私たちにとっては自明のことであるように思われます。
それは、日本国憲法の第14条に
「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、姓別、社会的身分又は門地により、政治的、経済又は社会的関係において、差別されない」
と明記されていることによります。
しかし、わずか60年以前の日本に差別が普通に行われていたこと、そして現代に至ってもそれらが決して解消されていなことを思えば、同等の平等から絶対無差別の平等への歩を進めることを本意とする仏教が追うべき責任は、言葉の背景をなしたことと共に、今も決して小さくはないといえます。