仏教の教えの四つの旗印(四法印)の一つに
「諸法(すべての存在)」
は無我である」
と説かれているように、この言葉は仏教において非常に重要な用語です。
私たちの日常語で
「無我」
と言えば、無我夢中とか、無我の境地などという言い方で用いられているのが普通です。
無我夢中いえば、例えば、我を忘れて夢中になって勝負事に没頭する様子などを表しています。
無我の境地といえば、私心なく執着を離れた無心な心の状態を表しています。
このように、無我という言葉は、忘我とか無心という意味で使われているのが普通です。
しかし、仏教で説かれる無我という教えの本来の意味ではありません。
確かに仏教は執着こそが苦悩の原因であるとして、それを離れることを説く教えです。
その場合には、我執(自身に対する執着)・我所執(所有欲)の否定という全く別の用語が用いられます。
どちらにも
「我」
という語があるため混同しやすいのですが、
「無我」
という言葉によって、執着の否定を意味する忘我とか無心が説かれているわけではありません。
それでは、仏教で説く
「無我」
とはどのような意味でしょうか。
インドの宗教では、自らの善悪の業(行為)の報いを受けて生まれ変わり死に変わりを繰り返すという業報輪廻転生が説かれます。
その場合、過去世から現在世へ、現在世から未来世への転生を可能にするためには、身体が死滅しても、消滅することなく存続する霊的実在が必要であり、それがサンスクリット語で
「アートマン」
と名付けられました。
私たち一人ひとりと不可分に存在する常一主宰の実在とされ、そのアートマンが
「我」
と翻訳されたのです。
仏教の出発点は、そのアートマンの実在を縁起の道理によって否定し、輪廻転生の世界から私たちを解放する解脱の道を明らかにしました。
したがって、無我とはそのような霊的実在としてのアートマンの存在を否定いる仏教の根本思想を示している重要な用語です。