「浄土三部経」
というのは、そのような名前の経典があるのではなく、私たち浄土教徒が自らの拠り所としている『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』という三部の経典を総称したものです。
すべて阿弥陀仏とその浄土について説かれていますので、
「浄土三部経」
と呼んでいます。
なお、一般には
「大経」
「観経」
「小経」
と略されています。
「大経」
は、上下二巻から出来ており、上巻では阿弥陀仏がどのようにして仏になられたか、またその浄土はどのようにすばらしいかが説かれ、下巻では私たち衆生はその国土に生まれるためにはどうすればよいか、浄土に生まれた衆生どのような姿になるかが明かされています。
そこで、上巻は阿弥陀仏の因果、下巻は衆生往生の因果が説かれていると言えます。
この経典は、 釈尊の不可思議な輝きから始まっています。
いつも釈尊のそばに仕えている弟子の阿難が、今まで見たこともないその不可思議な輝きは、きっと釈尊が最高の仏と念じあっているからだと確信し、その仏の教えを聞かせてほしいとお願いするのです。
それが阿弥陀仏の教法で、その教えの中心は、阿弥陀仏が一切の衆生を南無阿弥陀仏の名号を通して救われよ、と願われている本願にあります。
いわば経典の全体で、本願に誓われている名号の真理が明かされているのです。
この阿弥陀仏の大悲こそ最高の仏法ですから、この法の真実を説く経典が、釈尊がこの世に生まれられた意義、いわゆる出世本懐の経になるのです。
「観経」
は、釈尊の晩年、王舎城で起こった悲劇が機縁になっています。
この国のビンビサーラ王がアジャセ王子によって殺害されるという事件が起こったのですが、その后イダイケがこの悲劇の中で、釈尊に対して
「このような悲しみはもう二度と味わいたくない。
喜びのみの浄土に生まれたい」
と願います。
それに応えて説かれたのが、この
「観経」
です。
釈尊は、イダイケに凡夫が永遠に喜びを得るには、阿弥陀仏の浄土に生まれる以外に道はないと諭され、その浄土に生まれる念仏の喜びを与えられます。
イダイケはその喜びの中で、釈尊のいない未来の衆生がこの喜びを得るためにはどうすればよいかを問い、釈尊は心を鎮めて 阿弥陀仏を見る聖者のための念仏道と、ただ口に南無阿弥陀仏を称える凡夫のための念仏道を説かれます。
そこでこの経典は、機(人間)の真実を説く経典とされています。
「小経」
は、問うものがないのに、釈尊が仏弟子の舎利弗に一方的に阿弥陀仏の教法の真理を語り始められます。
そこでこの経典は
「無問自説経」
と呼ばれます。
また、それはあたかも遺言のようにも受け取ることから、この経典こそ釈尊の最後の説法だともされています。
そこでは、阿弥陀仏の浄土の素晴らしさが説かれ、阿弥陀仏が光明無量・寿命無量という無限の功徳を有しておられることを明かし、衆生はその仏の名号を称えるのみで往生するという念仏の道が示されています。
さらに加えて、この経典では十方の一切の諸仏が、釈尊と同じく阿弥陀仏を讃嘆し、釈尊が説かれる阿弥陀仏の教えがいかに真実であるかを証明されます。