浄土真宗は「聞法の宗教」であるといわれます。
阿弥陀様のお心を疑いなくそのまま聞かせていただくことを、何より大切にするからです。
ですから、ご法話を聞かせていただくことを「聴聞」といいます。
ところで、この「聴」と「聞」は、どちらも「きく」と読む語ですが、厳密にいうとその意味合いは少し違うようです。
「聴」は「私が○○をきく」というように、自分を中心にして耳を澄まし、ものをきく、ということです。
それに対して「聞」というのは私が聞くのではなく「きこえてくる」というように、私が中心ではなく、相手が中心なのです。
金子大栄先生のお言葉に、次のようなのがあります。
聞かなければ 聞こえない
聞こえてみれば 私が聞いたからではなかった
例えば、普段は会話やテレビの音など日常生活の音にかき消されていた、小鳥のさえずりや風の音などの自然の音が、ふと立ち止まって耳を澄ましたときに聞こえてくることがあります。
それらの音は、確かに耳を澄ましたから聞こえたのですが、実は小鳥はいつも鳴き、風はいつも吹いていたのです。
浄土真宗は「一定回数を聴聞すれば信心に到達する」というような教えではありません。
近道を探すのではなく、まずはじっくりと仏様のお心を聞かせていただく。
その過程にこそ実は意味があるように思われます。
耳を澄まし、当たり前と思っていた私の「いのち」を支えんとする、久遠の彼方よりのよび声を聞かせていただくのです。