お経に「心塞意閉」という言葉があります。
「心をふさぎ、思いを閉じる」ということです。
考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友だちを持っている間は、自身に絶望することはありません。
ですから、たとえどんなに苦しい問題にぶつかっていても、それを共に語り合う友だちがいて、共に語り合う世界を持っている人は、何度でも立ち上がっていけるものです。
けれども『誰に言ってもどうにもならない…』と、自分の思いに閉じこもったとき、人は絶望してしまうのです。
それがたとえどんなに苦しい事実であっても、その事実によって人は絶望することはありません。
その事実を受け止める「思い」によって絶望するのです。
そのために、心を閉じ思いを閉じたときに、人は救いようのない、言いようのない在り方に落ち込んでいくのです。
これに対して、仏さまの世界を表す表現に「心得開明」という言葉があります。
また「耳目開明」という言葉もあります。
耳が開けるということは、言葉が通じるということです。
言葉が通じるということは、心が通い合うということです。
また、目が開けるということは、事実のありのままが見えるということです。
それは、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界が開かれて行くということです。
私たちが「仏さまの世界を心のよりどころとして生きていく」ということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人びと出会い心を通い合わせるという生き方が私たちの上に開かれてくるのだと言えます。