私たちは「自分のいのち」ということを考える時に、無意識の内に
「私のいのちは、私のものだ」
という見方をしてしまっています。
けれども、果たして本当にそうだと言えるのでしょうか。
もし私のいのちが私のものであるならば、もっと私の自由に出来るはずです。
たとえば、いま私が財布にお金を持っていても、それが誰かから預かっているお金であれば…、つまり持ってはいても自分の自由に出来ないお金であれば、私のものではありません。
私がどのように使っても、誰からも文句を言われないお金である時に「私のお金だ」と言えるのです。
このように、私が自由に出来てこそ
「私のいのちだ」
といえるのではないでしょうか。
ところが、私のいのちは先ず生まれて来る時から性別・時代・環境など何一つ自由ではありませんでした。
私が望んだ訳でもないのに、気がついた時には、既に今の私の全てが与えられていたのです。
そして、また死ぬときも決して自由ではありません。
「死ぬときまでは元気で、死ぬ時にはあっさりと楽に死にたい」
と思っていても、なかなかそう上手くはいきません。
たとえ自殺を図ったとしても、条件が整わなければ未遂に終ることもあります。
統計によれば、自殺を図って実際に亡くなった人は四人に一人の割合なのだそうです。
したがって、決断して実行さえすれば必ず死ねるとは限らないようです。
もちろん生きている間も、私の日々の生活は全くと行ってよいほど私の自由にはなりません。
このように、生まれてくる時も自由ではありませんし、日々の歩みも自由ではありません。
そして、死ぬときもまた自由にはなりません。
まさに、私のいのちは私の思い通りになるいのちではないのです。
よく「自分のいのち」と言いますが、実は私が生きているこの「いのち」は、私の思いをはるかに超えた、私の思いよりもはるかに深く広いいのちに支えられて生きているのです。
そうであるにもかかわらず、私たちは自分のいのちを自分の思いだけで生きようとし、それが思い通りに行かないと、いつしか自分だけの思いの中に閉じこもってしまいます。
あなたは、
「自分のいのちは自分だけのものだ」
と錯覚したまま、その一生を終えますか。
それとも私の思いよりもはるかに深く広いいのちを与えられたことに目覚め、そのいのち代表として、共に生きることを願いますか。
この私のいのち中には、海の大地の無数のいのちが共に生きています。その無数いのちに支えられ、共に生きていることへの自覚と、
「この人生を決して空しく終ってはならない」
という責任感から発せられる言葉を
「もったいない」
と言うのだと思います。