『浄土 還る家のあるありがたさ』

一般に、長期であっても短期であっても、旅をすることが好きな人はとても多いようです。

そういえば、よく旅行から帰って来た人が、

「あ〜、今度の旅行、とても楽しかった。また行きたいねぇ〜。でも、やっぱり我が家が一番!」

といったようなことを口にするのを聞くことがあります。

それは、旅先のホテルや旅館が、どれほど素晴らしい施設であったり、心を込めたもてなしをしてくれたとしても、やはり私の家ではありませんし、またそこから無事に自分の家にたどり着けるという保証もありません。

そのため、心の奥底では緊張の糸が張りつめているので、心底くつろぐことが難しいのですが、自分の家に帰って来ると、一切の緊張の糸がゆるんでホッとするので、思わず「我が家が一番」と感じてしまうのです。

まさに、「旅は帰れる家があるからこそ、楽しい」のです。

帰る家のない旅を「放浪」といいます。

今夜は泊まる家があったけれども、明日以降はあてがない、という旅は本当に不安だと思われます。

私たちの人生も、しばしば旅をすることにたとえられます。

既に気がつけば、今こうして生きているわけですが、そうすると私たちは「人生という旅」の途上にあるのだと言えます。

そこで考えて頂きたいことは、あなたはもういのちの帰って行く世界を見出していますか、ということです。

もし、いのちの帰って行く世界がわからないままに生きているとしたら…、それはまるで放浪みたいな人生だといえはしないでしょうか。

いのちの帰って行く世界をもたない人生には、しばしば死の影が舞い降りてきます。

ちょっと病気をすると

「死ぬのではなかろうか?」

と不安になったり、上手くいかないことが続くと、

「先祖の誰かが迷っているのでは?」

とか

「何かの霊に取りつかれているのでは?」

と恐れたり、

「日の善し悪しは大丈夫か?」

とか、

「方角は間違っていないか?」

といったことが気になったり、その結果毎朝新聞が来ると真っ先に

「今日の運勢はどうだろうか?」

とか、テレビのチャンネルを変えながら、自分の気に入る

「今日の占い」

を見るまでは落ち着かなかったりします。

そのような私たちに、南無阿弥陀仏は

「あなたのいのちの帰ってくる世界はここだ。私の浄土に生まれたいと思うものは、南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」

と、呼びかけていて下さいます。

しかも、願うに先立って、願うと願わざるとにかかわらず、私のためにはたらいていてくださるのです。

この教えを聞いて、いのちの帰る世界を浄土と見定めて歩き出す人生を「往生浄土」といいます。

このいのちが、いったいどこに向かえばよいのかわからないままに迷い続けていた私が、尊いみ教えを聞いて、毎日一歩ずつ

「浄土に往き生まれていく私」

となり、この迷いのいのちの終わる瞬間に、成仏という形で往生浄土の歩みを完成させていくのです。