『仏法は私の心を写す鏡』

鏡に映った自分の姿を見て、あなたはまず何をしますか。

ほとんどの人が、服装や髪を直したりすることと思います。

あるいは、自分の顔をまじまじと眺めて、

「シワが増えたな」とか、

「最近太ったな」とか、

中には「いい顔をしているな」などと思われる人もいるかもしれませんね。

このように、日頃私たちが使っている鏡は、外見をあるがままに映し出してくれるのですが、もし私の内面までをも写し出す鏡があったらとしたら、あなたは欲しいと思いますか。

怖いもの見たさもあるかもしれませんが、実際にそのような鏡の前に立つと、自分の姿に愕然としてしまうのではないでしょうか。

なぜなら、外見を繕うことは出来ても、内面まで隠し通すことはなかなか難しいからです。

嫌いな人の前であれば、いくら笑顔で接していても、心の中で舌を出している姿が写し出されたりすることもあるかもしれません。

親鸞聖人の著された

「正像末和讃」には

「外面に現れた身のふるまいは、いかにも賢く善い行いに励んでいるかのように見せかけていますが、内面は貪り・怒り・腹立ち・そねみ・妬み・卑さ・嘘・偽りの多いこの身です」

と記されています。

これは、親鸞聖人が仏法に自らの姿を照らした結果、深い悲しみの中から述べられたものです。

また、お手紙には

「貪り・怒り・偽りの多い身だからといって、そのことに甘えて、してはいけないことをしたり、口に出しては行けないことを言ったり、心に思ってはいけないことを思ったりするなど、自己中心的で身勝手な振る舞いをしても良いのだと語り合ったりすることは、本当に心の痛むことです。

お酒に酔っている人が、まだその酔いもさめていないのに更にお酒を勧めたり、毒が消えていないのにいよいよ毒を勧めるようなものです。

いくら薬があるからといって、毒を好きになりなさいなどということは、あってはならないことです。」

と厳しく注意しておられます。

仏さまの教えは、私たちの心を写し出す鏡です。

私たちは、仏さまのみ教えを聞くということがなければ、自分の本当の姿を知ることは出来ません。

繰り返しみ教えを聞くことを通して、そこに明らかになる自分の姿から目をそらすことなく、しっかりと向き合って、あるべき姿に正していけるかどうか、人間として生きる上でとても大切なことだと思われます。