お釈迦さまの多くのお弟子方の中で、特に優れたお弟子として知られているのが舎利弗(しゃりほつ)と言われる方です。
よくご法事で読まれる『阿弥陀経』では、この舎利弗にお釈迦さまが繰り返し
「舎利弗よ、舎利弗よ」
と語りかけながら法を説いておられます。
この舎利弗がお釈迦さまの弟子になった時の模様について、大変興味深いことが伝えられています。
舎利弗は始め親友の目蓮と共にサンジャヤという人に学んでいたのですが、すぐにその説くところを理解し尽くしてしまいました。
やがて、お釈迦さまのお弟子と出会い、その教えの素晴しさにふれて、目蓮とサンジャヤの他の弟子二百五十人と共に弟子入りをしました。
初めて説法を聞いたとき、二人のあとからついて来た二百五十人の弟子たちは、お釈迦さまの説法に聞きほれて、ただちに聖者の最高の境地である阿羅漢(あらかん)の位にまで到達しました。
聖者の境地、さとりには四つの段階が説かれています。
第一は予流果(よるか)で、はじめてさとりに向かう流れに乗り、聖者の位に加わった位です。
次は、一生、迷いの生涯を送れば聖者になれる一来果。
その次は、もう二度と迷いの生死に還ることなくさとれる不還果(ふげんか)。
そして最後は、苦悩からの完全な解脱を成就した聖者の最高位、阿羅漢果です。
ところが、肝心の舎利弗は最低の予流果の境地にとどまって、すぐには阿羅漢に至ることができなかったのです。
舎利弗が、他の弟子たちと同じように阿羅漢果に達することが出来たのは、僧団に入って実に十四日目であったと伝えられています。
舎利弗は、後に智慧第一の人と尊ばれた方ですが、その舎利弗が阿羅漢の位に達するのが一番遅かったというのは、まことに興味深いことです。
ところで、なぜそのように時間がかかったのでしょうか。
それは、おそらく舎利弗がいろいろな疑問を持ったからだと思われます。
他のお弟子方には少しも疑問にならないことにも、ひとつひとつぶつかり、思いまどい、問い詰めてゆかれたのです。
真理は、それを問う、問いの深さに応じてあらわになってくると言われます。
聞いてすぐに納得する素直さも、それはそれで尊いことですが、そういう人たちばかりの時には、仏法は聞いてすぐに分かる人たちだけにしか伝わらなくなってしまいます。
けれども、なかなか納得せず、どこまでも問い続け、ひたすら考え、そのようにして初めてうなずけた人は、それだけに頷けた教えをどんな人にも伝えることのできる言葉を身につけることができます。
現代は、いかに早く答えを出すかということで学力を評価しています。
いつまでもぐずぐず問い続け、考えるような者は、頭の悪いヤツとして切り捨てさえします。
その結果、人間はいよいよ考える力を失ってロボット化していくことに陥って行くようです。
しかし、問いが人間を育て、道をひろく明らかにしていくのです。
一般に、人は楽しみの中では我を忘れ、その境遇に耽溺して、人生を問い返すことなどしないものです。
一方、苦しんだり悩んだりすることにおいて、なぜこんな苦しみを受けなればならないのか、こんな苦しい生活に何の意味があるのかともがきます。
けれども、それがより深い人生を求めさせる糸口となってゆくのです。
まさに、迷うから、悩むからこそ、私たちの人生は深まっていくのです。
そのことの大切さを、舎利弗のエピソードが証してくれているように窺えます。