『いのちはいただきもの』

私たちは、日頃特に気にすることもなく

「いのち」

という言葉を口にしていますが、改めて

「いのちとは何ですか」

と尋ねられたとしたら、その問いに即座に答えることが出来るでしょうか。

考えてみますと、今私はこうして生きていますが、自分が生まれてきた時のことを自覚的に語ることは出来ませんし、また必ず死んで行かなくてはならないのですが、死ぬとはいったいどのようなことなのか実感を持って語ることもできません。

そうすると、分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私のいのちであり、人生だということになります。

顧みれば、私の意識では何も分からないのに、私はこの世に生まれて、そして気がついてみたら、既にこの私であったのです。

しかも、生まれてからすぐに私は私だと自覚した訳ではありません。

赤ちゃんの頃の記憶など皆無ですし、その頃はいわば生きようとする本能のままに生きていたのだと言えます。

言い換えると、私は私自身を自覚しないままに生きていたということです。

けれども、私が今ここにこうして生きているということは、わからない間も有形、無形の働きが支えていてくれたという事実があったからに違いありません。

それは、私から頼んだ覚えがないにもかかわらず、私を生かすために、無数の願いが、

「生きてくれ」

と支えていてくれたということです。

そのような意味で、

「いのち」

とは、願いの結晶だと言うことができます。

詩人の榎本栄一さんは、私たちのいのちのありようを

「罪悪深重」

という詩で

私は今日まで

海の大地の

無数の生きものを

食べてきた

私の罪の深さは

底知れず

と明らかにしておられます。

「海の、大地の無数の生きものを食べてきた」

まさに、これが私のいのちの事実です。

けれども、

「そんなことを気にしていたら、生きて行けないではないか」

と言われるかも知れません。

確かにその通りですし、人間以外の生きものも同様に他のいのちを食して生きています。

ただし、人間だけが他の生きものと決定的に異なる点があります。

それは、人間だけが

「殺す」

という意識をもって、他のいのちを殺しているということです。

それゆえに、人間だけが、生きものであることの意味を問い、生きものであることの恐ろしさを実感することが出来るのです。

したがって、無数の生きものを食べて生きていく限りにおいて、私が生きていることが、そのまま

「罪の深さは底知れず」

と実感できてこそ、初めて人は人間として生きていると言い得ます。

この世に生を受けているどんな生きものも、死にたいと思って生きている生きものは一つもありません。

こうして生きていながら、死にたいと考えたり実際に自ら死んでしまうのは人間だけです。

経典には、

「全ての生きものは、自らのいのちを愛して生きている」

と説かれています。

その無数のいのちを私たちは食べて生きているのですが、おそらくただ黙って死んでいく生きものなどいないと思われます。

そうだとすると、無数の生きものの

「声なき声」

とでも言うべき、いのち願いに、私たちは耳を傾け応える必要があるのではないでしょうか。

もちろん、具体的な言葉として耳にするということは不可能ですが、おそらくそこに願われていることは、頂いたいのちを無駄にしない生き方をこの私がしていくことだと思われます。

ともすれば、私たちは

「自分のいのちは自分だけのもの」

という錯覚に陥りがちなものです。

けれども、私のいのちは、願うに先立って既に阿弥陀仏に願われているいのちであり、同時にこれまで頂いてきた海の大地の無数の生きものから願われている

「いのち」

だといえます。

私のこのいのちは、自らが作ったものではなく、賜ったいのちであり、そして多くのいちのをいただいて生きているいのちであることの意味を、改めて考えてみたいものです。