『いのちはいただきも』

作家の沢木耕太郎さんが、子どもの頃の記憶をこんな風に語っています。

食べ盛りの私のおかずの皿に何もなくなってしまうと、母が自分の皿から肉や魚を私の皿に移してくれて

「食べなさい」

と言う。

その時も、子どもの頃の私は思ったはずだ。

お母さんは、お腹がすかないのだろうか?と。

そして、気がつくと、親になった私も母と同じようなことをやっていた。

ある意味で、親は子に

「食べ物」

を削って、与えていると言えなくもない。

それを愛情と言ってもよい。

「食物」

を削るということは、

「いのち」

を削るということと等しい行為である。

自分の

「いのち」

を削って、子に与える。

それが何でもないことのように行われることによって、

「いのち」

もまたごく自然に伝えられることになる。

私のこの

「いのち」

は、こうして遥か昔から親から子へと、連綿と与えられてきたいただきものなのです。

そこで、あなたにお尋ねです。

いただきものの

「いのち」

を約束されたかのようなに、今をおざなりに過ごしてはいませんか。

考えるまでもなく、永遠の

「いのち」

などあろうはすもなく、明日の

「いのち」

のことさえ全く確約がないというのが事実なのです。

自分の力では、どうにもならないこの

「いのち」。

いっそ、この

「いのち」

が一番喜ぶ生き方をしてみませんか?

すべてのご縁を、互いに微笑む生き方をしてみませんか。