「聞法」
とは、
「仏法を聞く」
ということですが、一般にはお釈迦さまの説かれた教えを、また浄土真宗ではそれに加えて親鸞聖人や蓮如上人の説かれた教えを聞くことだと理解されています。
改めて言うまでもなく、このように自分の進むべき道を求めて、仏法に真摯に耳を傾けるということは、とても尊い行為だと言えます。
ところで、中国の善導大師は
「仏教というのは私を待っている教えだ」
と述べておられます。
これはどのようなことかと言うと、仏教はどこかの誰かのことを述べているのではなく、この私のことを明らかにする教えだと言われているのです。
これは、仏教という教えは、聞けばきくほどに、自分のことを見事に言い当てている言葉があったということに出会っていく教えだということです。
けれども、私たちは誰よりも自分のことは、自身が一番よく分かっていると思っています。
確かに、自分のことですから、他の誰よりも自身が一番よく知っているはずです。
ところが
「本当にそうか」
と言われる、これが怪しいのです。
例えば
「自分の顔を知っていますか」
ときかれたら、誰もが
「知っていますよ」
と言われるに違いありません。
では、紙と鉛筆を渡されて
「何も見ないで自分の顔を描けますか」
と言われたらどうでしょう。
おそらく、大半の方が困ってしまわれることと思います。
毎日鏡で見て、よく知っているはずなのに、なかなか思うようには描けないものです。
では、改めて
「鏡を見ながら…」
ということならどうでしょうか。
それだと、何となく描けそうな気がしますが、お釈迦さまは
「賢いものは鏡を見ても、これが私の顔だとは思わない」
と言われます。
どのようなことかと言うと、私たちが鏡の前に立つのはどういった時でしょうか。
悲しかったり、辛かったりする時には、あまり立ちたくないものです。
気分的には、機嫌が良いか、普通といったような時に立つものです。
その時に、鏡に映っている自分の様子が気に入らなかったとしたら、おそらく時間の許す限り修正を試みるということになるのではないでしょうか。
そして、
「うん!」
と頷いて鏡を後にされると思うのですが、その頷いた顔をずっとしているかというと、百面相とまでは言わないものの喜怒哀楽、快・不快、いろんな表情をされることと思われます。
ところが、その一々をつぶさに知っているのは、周囲の人々であって、むしろ私だけが知らないのです。
ですから、
「写真写りが悪い」
という人が時々写真を見せて下さるのですが、
「いつもの顔!」
と思ったり、あるいは
「これは…、私の顔とは違うよね」
といって知り合いに写真を見せると
「いや、よくそんな顔をしてますよ」
と返されて、
「え〜っ」
とへこむこともあったりします。
このように、私たちは誰よりも自分のことをよく理解しているつもりでいるのですが、外見についてさえこのようなありさまです。
「内面は…」
というと、どう考えても
「他人に厳しく、自分には優しい」
といった生き方をしていますので、自己評価と他人の評価とを比べると、自己評価は80点以上つけてしまいそうです。
その一方、他人の評価が20〜30点くらいしかないと、
「70〜80点くらいはあるのではありませんか」
と、注文をつけてしまうかもしれません。
ですから、おそらく自分のことは半分程度しか分かっていないのだと思います。
「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」
という言葉があります。
他人の悪口は嘘でも面白いものですが、自分のこととなると、それがたとえ本当のことであっても、注意をされたりすると人は不機嫌になってしまうものです。
また、世の中には自分のことについて本当のことを言ってくれる人は、ほとんどいません。
自分でも、周囲の人にあまり本当のことは言われないのではないでしょうか。
それは、いつも本当のことばかり言っていたのでは、友だちの少ない人生を過ごすことになりかねないからです。
そうすると、私たちは、仏教に耳を傾けることを通して、初めて本当の
「自己」
というものを知ることが出来るのだと思います。
そして、教えを聞くことを通して、自分のあるべき姿を知り、それに少しでも近付こうとする生き方を求めて行くことになるのだと思われます。