「がんばれ」
というのが、苦手です。
「がんばったね」
とはいえるけれど、でも
「がんばれ」
と人には言いづらい。
ですから、私ががんばれた、という経験を恥ずかしながらご紹介します。
私だけかもしれませんが、悩んだり苦しんだりしたときに、泣ける歌を聴いて涙して感動すると、その後、妙に元気が出てくるのです。
いまマイブームなのは、谷山浩子さんの歌です。
えっ、知らない・・・ググって下さい。
『沙羅双樹』 谷山浩子 作詞
「沙羅 あなたの孤独が突然私に見えた
(中略)
沙羅 あなたの孤独が私の孤独のように
あなたの夜が私の夜に その時確かに重なり合った
(中略)
他の人へとつながる わたしの細い通路は
瓦礫や石でふさがれていると 思い込んでた
わたしはひとりだと でもこんなにも広い
果てしない宇宙の中で ただの一度も
ただの一瞬も途切れて ひとりだったことはなかった
この曲で、浩子さんは
「孤独が見えた」
と歌います。
「見えた」
とは対象として見た、というより
「あぁ、あなたの孤独はこんなにも辛かったのか」
と、対象の孤独と自分が一体化したような感じです。
分かりやすくいうと
「共感」
ということでしょうか。
この曲がアップされているニコ動(谷山浩子の励ましソングたち)を見ると、
「ありがとう」とか
「がんばる」とか、
でも同時に
「辛い」
「死にたい」
というコメントも見えます。
孤独や悩む人を励まし助けようとしても、がんばるエネルギーが枯渇している人には届きません。
それより今の自分の苦しみを共有できる人に勇気づけられて、がんばろうという気持ちが起こってくると思います。
表題
「あなたがいてくれたから」
のあなたは、私の苦しみに共感してくれる人だと思います。
私はボクシングが好きでよく見に行くのですが、ボクサーの減量は生半可なものではありません。
歯が溶けるくらい食べるのを我慢するそうです。
どうしてそんなことが出来るのかと聞くと、相手も同じように苦しんでがんばっているから、自分もがんばれるというのです。
リングに上がれば容赦なくたたきのめさなくてはならない相手をどこか戦友のように考えています。
それは、自分の苦しみをわかってくれるのは、同じ境遇の相手だと知っているからでしょう。
阿弥陀様は慈悲の仏さまです。
「慈悲」
は悲しみに寄り添いあわれむ、いつくしむということです。
悲しいという字が使われていることが、私の勇気の元になるような気がします。