『自分の力で生きているものは一つもない』

私たちは今こうして生きているのですが、自分が生まれてきた時のことを自覚的に語れる人は誰もいません。

また、生まれた以上いつか必ず死んで行かなくてはならないのですが、死ぬという経験をしたことがないので、自分が死んで行くということもよく分かりません。

そうすると、私のいのちは、分からないところから始まって、分からないところで終わるということになります。

このように、分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私のいのちだとすると、私たちは生きている間はいのちについて何となく分かっているつもりではいるのですが、やはり本質的な部分では何も分かっていないのだと言えます。

思えば、私は自らの意志によって

「生まれよう!」

と思って生まれて来た訳ではなく、気がついたら生まれていたのです。

しかも、生まれてすぐに

「生まれた!」

と自覚することもありませんでしたし、自らのことを意識したのは生まれて数年を経てからのことです。

つまり、私の意識では何も分からないのに、私はこの世に誕生して、しかも気がついたら私であったのです。

ところが、私は私自身を知らないままに生きていたのですが、それでもちゃんと生きて来ることが出来たのは、そこに有形、無形の多くの働きが支えてくれていたという事実があったからに他なりません。

もし、何か一つでも欠けていたら、おそらく生き続けることはできず、一言の文句も言えないままに息絶えていたことでしょう。

その

「気がついたら…」

という時までのいのち一つを考えてみても、私から頼んだ覚えがないにもかかわらず、何とか生きてこられたのは、私を生かすために無数の願いが

「生きてくれ」

「生きてくれ」

と支えてくれていたからに相違ありません。

その支えてくれていた存在とは、具体的には親であったり、親族であったりするのですが、今日までの私のいのちを願ってくれているのは、決してそれだけではありません。

考えてみますと、意識するとしないとにかかわらず、私たちは多くの生き物のいのちを殺して食べて生きています。

それは、生き物が私の口へ入って死んでくれているということです。

そうすると、経典には

「すべての生き物は自らのいのちを愛して生きている」

と説いてありますから、ただ黙って私のために死んでいく生き物はいないと思われます。

もし言葉が通じるとしたら、きっと

あなたは、私たちの

「いのち」

を取っているのだから、私たちを無駄死にさせないような人間になってもらわなければ困る。

私たちのいのちを無駄にしないあなたになれ。

というようなことを願っているのではないでしょうか。

このように、周囲にいる家族だけではなく、私のいのちは無数の願いに支えられているのですから、今こうして生きている私のいのちは、ただ漠然と生きているのではなく、多くのいのちの

「願いの結晶」

であると言うことができます。

ともすれば、私たちは自分一人の力で生きているかのように錯覚しています。

そのために、人生の途上で困難に直面して挫折すると、ふと

「死んでしまいたい」

と思うことがあったりします。

けれども、どれほど私が自分自身に絶望してそのようなことを思っても、私のいのちはそのような身勝手な思いにとらわれることなく、私が寝ている間にもこうして私を生かしめています。

まさに、多くの願いの結晶であるいのちが今私を生きているのです。

自分の力で生きているものは一つもありません。

周囲の人々によって、そしてより根源的には多くのいのちに支えられて、今こうして生きているのです。

そのことに、心を寄せる感性を親鸞聖人は

「知恩」

という言葉で語っておられます。