『どんなところにも生かされていく道はある』

私たちの住むこの日本では、昨年2011年までで、自死(自殺)者数が14年連続で3万人を超えています。

未遂、願望をもつ人を含めるとその数は20倍にもなる、というデータもあるそうです。

原因は様々で、その苦しみは当事者でなければわからない事でありますが、この現代社会に生きづらさを感じている人が、私たちの身近にたくさんおられるということは確かな事でしょう。

ある戦場カメラマンが、

「いくら紛争地帯でも、年間3万人もの人が死ぬことはそんなにありません。

日本ではそれくらいの人々が自殺しています。

この国は形を変えた戦場なんです」

とおっしゃった言葉がとても印象深く残っておりますが、私たちの生きるこの社会は、目に見える物から目には見えない様々な武器を持って、お互いがお互いのいのちを傷付けあっている、そんな社会の側面をもっているのかもしれません。

そのような大変な中で私たちは今、生活をしています。

お釈迦さまご在世の時代に、憎悪や権力欲に狂い、実父を殺害し、実母を牢に幽閉した阿闍世という王がいました。

やがて阿闍世は父親殺害という罪の自覚から、こころも身体も病んでいき、最後にお釈迦さまに救いを求めていきます。

お釈迦さまは、

「父を殺害した阿闍世の罪は、この同じ社会に生きるわたしの罪でもある」

と受けとめられ、お釈迦さま自身も老いた身体で最後の力をふりしぼり阿闍世のこころに寄り添い、法を説かれていきます。

私たちの社会は様々な問題を抱えています。

自死、差別、いじめ、環境、原発・・・・。

それら様々な問題に対して私たちは、関係ある事、無いことと区別してしまいがちですが、同じ社会に生きる私たちにとって、社会の問題、出来事はすべて私も含めた関係性の中にあるという視点を私たちは大切にしなければならないと思います。

人間としての尊厳を奪われ、長きにわたり部落差別という理不尽かつ厳しい差別を受けてこられた方が、

「これだけの厳しい差別を受けてきても、われわれの先祖は生き抜いてきた。

そのような中でも生きていける強さを人間はもっていると思う。

それはその差別と共に闘い、耐え抜いてきた仲間がいたからだ。

しかしそんな強さをもつ人間も、孤独の中で生きていく事は非常に困難なことなんだよ」

と語られた事がありました。

今、さかんに

「絆」

という言葉が使われる現代ではありますが、その背景には孤独を感じておられる方がいかに多いかという事でもあるのでしょう。

自分ひとりで生きている、そのもの一つで成り立っているいのちなど何一つありません。

すべては関係性の中で、お互いに相支え、相支えられつつ生かされている、という縁起によるいのちの見方を仏教では大切にしています。

またそのようないのちの真実を私に気づかせ、私がどのような境遇にあろうとも、私が背を向けようとも、いつも寄り添い、

「決して見捨てはしない」

とはたらいてくださるのが阿弥陀如来というほとけさまであり、そのおこころが

「南無阿弥陀仏」

というお念仏であります。

わたしたちがいのちある限り抱えていかなければならない多くの悩み苦しみの中で、確かなよりどころとなるのがお念仏であります。

とすれば、そのお念仏の教えをいただく私たちのこの集団(僧伽・サンガ)も、よりどころとならなければなりません。

今、私たちの教団は、この私はその僧伽の一員となっているでしょうか?今一度、問う必要があると思いますし、それがお念仏をいただくということだと思います。

その視点に立った時、どんなところにも生かされて生きている、お念仏の道がひらけてくると思います。