鹿児島には、県外から多くの観光客が来られます。
また、桜島と鹿児島を結ぶフェリーの中では、日本語に続いて英語・中国語・韓国語のアナウンスが流れますので、おそらく外国からも雄大な桜島を目当てに、多くの方が観光に来ておられるのだと思われます。
私は、桜島の溶岩道路を走行している時、いつも見慣れているせいか、桜島を見ても特に感慨を覚えることはないのですが、私の車に同乗しておられる県外から来られた方は、その雄姿に感動の言葉を口にされます。
一方、私も旅行や出張などで見知らぬ土地に出かけた時、初めて見るその地の建物や風景の素晴らしさに感動したりすることがあります。
けれども、そこに住んでおられる方は、毎日私と同じ思いに浸っておられるかというと、おそらく私が桜島見るような感覚でいらっしゃるのではないかと想像することです。
このことから、同じ光景であっても、見る人によって目に映る様は全く違う気がします。
源信僧都の『往生要集』の中に
「苦といい楽といい、ともに流転を出でず」
という言葉があります。
流転ということは、言い換えると、自分を忘れる、自分を見失うということです。
私たちは、苦しい状態あっても愚痴を言うという形で自分を失っています。
それと同時に、楽しい状態にあっても、その楽しみに中に自分を忘れて、空しく日々を過ごしてしまうということがあります。
そこに、苦しみといい楽しみといい、いずれにしてもそういう自分を忘れたあり方というものを出ていないのが、私たちの姿だといわれるのです。
また、苦というのは
「自情に逼迫(ひっぱく)している状態」
であると言われます。
私の感情、気持ちにとって、今の私の状況が胸苦しく圧迫してくる、そういう状態として受け止められるという時が苦です。
それに対して、楽というのは
「自情に適悦」
というあり方、自分の情に合致しているというあり方です。
この場合
「自情に」
ということが要点です。
それは、苦というのは
「私にとって苦しい状況」
だということです。
決して、世の中に苦しい世界というものがあるのではありません。
事実は、ひとつの世界を私は苦しいものとして生きているということがあるだけなのです。
したがって、同じような状態であっても、他の人は生きがいのある世界として生きているということもあり、また私自身にあっても、今まで苦しみしか感じなかったその世界が、今は楽しい世界だと感じられるようになるということもあります。
そうすると、同じような環境であっても、そこに大きな問題を荷なって、生きがいをもって生きている人もあれば、反対にただ愚痴ばかりをこぼして世の中を呪っている人もいたりします。
このように、私の
「自情」
をはなれて、外側に苦しい世界とか楽しい世界が色わけされて存在しているのではありません。
ただ、自らに与えられている状況を、私は自分の思いによって苦しいもの、あるいは楽しいものとして受け取り、生きている事実があるということがあるだけなのです。
このように、苦楽ともにそれによって自分を見失っていくのがこの私たちの迷いの世界です。
一方、苦といい楽といい、そのいずれをもあるがままに受け止めていける世界を極楽(浄土)といいます。
苦楽いずれにあっても、そのことによって、自分というものを本当に受け止め、自分というものを本当に生きていける。
そういう世界を見出して行くあり方を、親鸞聖人は
「浄土真宗」
と教えてくださったのだと言えます。
したがって、そのみ教えに生きる人は、どんなところにも生かされていく道はあるのだということを実感し、体現してくださるように思われます。