「人間とはね」(中旬)年寄りは知惠者

総合人間研究所所長 早川一光さん

 お坊さんは数珠を手に持って、いつも袈裟を着ておられます。

ぼくは数珠を持って病院に行く訳にはいきませんやろ。

持っていくものは聴診器しかありませんもん。

いつもポケットやかばんに入れて持ち歩いているんでっせ。

なぜかと言うたら、いつどこでどんな病人に会うかわからへんやんか。

道歩いてて倒れている人がおったら、診にいかなきゃなれません。

だからそのときに、聴診器をあてて脈をとる。

倒れている人がいても、「あっしとはかかわりのねえことでござんす」なんて知らん顏できません。

 新幹線に乗っていてもそういうことあります。

「この電車にお医者さんはお乗りになってませんか。

急病人が出ました。

お乗り合わせでしたら一度診てもらえませんか」と言われることもあるんです。

そんな時ぼくね、ものすごく若い自分に迷ったのよ。

なんで迷うかいうたら、私服だったら誰もぼくが医者やと思わへんから、知らん顔していてもすむやんか。

 かかわったら危ない。

一番初めにかかわって、ちょっと診て「あ、大丈夫です」なんて言ってみたら実は死んでて、「あの医者はなんだ」って責任をとらされたらかなわんよ。

知らん顏してたらええんでしょ。

一緒になって、医者探したらええやんか。

診に行くから責任をとらされるんです。

だから行かんとこと思ったけど、やっぱり困ってる人がおったら思わず診に行きます。

いくならちゃんと聴診器とか血圧計持って、いつでも診れるように身を固めていく必要があるんやないか。

 六十年の間、ぼくは真剣に患者さんを診てきて、レントゲン撮らなきゃ、血圧を測らなきゃ、あるいは心電図とらんとわからんという医者でなくなりましたな。

不思議なことに、皆さんの手を握って脈をとったら、その方の血圧はほぼわかります。

ぼくの指が血圧計、ぼくの手が体温計、ぼくの指先が心電図、脈をとってるだけでわかる。

それほどたくさんの人に触れてきましたからね。

 一生懸命診察する、触れる、診る、聞くということが、医療の一番の基本だということがわかりましたわな。

なんぼレントゲン撮って、なんぼ心電図とって、なんぼCTで断層図をとったところで、それはあくまでも映像であって、本物ではない。

本物は自分の手でさわらんとわからんのです。

 長年お年寄りを診察していてわかったことは、真剣に耳を澄ませて聞いてくれていたのか、いい加減にあしらったかということだけは、ちゃんと見抜いとったということですわ。

お年寄りとは知恵者ですな。

経験豊かです。

この頃のお年寄りは、ほんの隅に置けませんもん。

 でも最近心得ました。

お年寄りの言うことを耳を澄ませて聞いて、検査に検査を重ねたら、悪いところがいっぱい出てくるのよ。

目も悪い、鼻も悪い、口ももちろん悪いし、心臓も肝臓も胃袋もよく使ってきた場所だからね。

そりゃ悪いところを探したら、いっぱい出てくるやんか。

 ぼくも若いときは、「どこぞ悪いところはないか」と言って、悪いところを早く見つけて治すのが医者の仕事やと思い込んでたもん。

だから診察するときには、悪いところを探すので精一杯やったのよ。

 この頃は違うんや。

お年寄りを診察するときは、聴診器あてて「どこぞええところ残ってないか」と言う。

そりゃ七十年も八十年も車検も受けずに、油もささんと酷使してきたわけですもん。

そんなもん傷んどるに決まっとるやん。