本来「真理」というものは、誰にでもわかるものであり、また真理とはそういうものでなくてはならないといえます。
したがって、もしある真理が開かれているにもかかわらず、その真理がわからないとすると、それは理解できない私の側に問題があるのだといえます。
なぜなら、私の方が真理そのものの見方を見誤っているのですから、その真理を知り得ないのは当然のことだといわなくてはなりません。
とかし、いったんわかってしまうと、「なんだ、こういうことなのか」というようになるのではなかろうかと思われます。
親鸞聖人は二つの真理を明らかにされたと考えられます。
ひとつは、仏の究極は何かということで、それは悟りそのものの真理です。
言い換えますと、阿弥陀仏の智慧と大いなる慈悲のすべてを明らかにされたということです。
それに対してもうひとつは、人間の究極、人間の本当の姿とは何か、ということを明らかにされました。
人間というものは、悟りとは全く逆の立場にあるわけですから、迷っているのですが、その迷いとはどのようなものであるかを明らかにされたのです。
親鸞聖人はこの仏の真理と凡夫の真理を明らかにされたのです。
ところで、実は私たちには、この二つの真理をその通りに知ることはなかなか出来ません。
したがって、親鸞聖人は私たちに、その迷っている姿の真相を明らかにして下さったのですが、私たちは迷っているそのことに自ら気づくことが出来ないのです。
そのために、親鸞聖人の書かれたものをなかなか理解できなかったりするのです。
(続く)