親鸞聖人の教えにはひとつの原理があって、それは極めて簡単なものです。
その原理の構造というのは「仏が迷っている私を救う」ということです。
私が仏によって救われるという、そういう真理なのです。
ひとことでいうと、この原理が浄土真宗の教えの全てだと言えます。
ただし、迷い続けているものに、仏の心がどうしてわかるのか、仏が私を救うという、そのことがどうしてわかるのか、この点が難中の難といわれているように、一番難しいのです。
親鸞聖人は一方において、阿弥陀仏の救いの論理を明らかにしておられますが、その仏の働きの論理は、それほど難しくはありません。
また、他方において、人間の迷いの論理、凡夫の心の痛みが説かれているのですが、それも実に鮮やかでわかりやすいのです。
ところが、この仏の大悲に、迷っている私が、いかにして出遇うかということが、非常にわかりにくいのです。
親鸞聖人はこの一点を何とかして私たちにわからせようとしておられるのですが、悲しいことにそれを求める心を持っていない私たちには、この点が実に難しくてわからないのです。
仏教には学び方が二通りあります。
ひとつは「解学」といい、思想・知識として仏教を学ぶ在り方です。
もう一つは「行学」といい、知識として学んだことを自らの生活に照らしつつ、自分の生きる生き方というものを仏教に学んで行くという在り方です。
殊に、後者の在り方を踏まえて、仏教は「私を待っている教え」だと言われます。
それは、仏教がどこかの誰かのことを語っているのではなく、この私自身を明らかにする教えだということを意味しています。
したがって、仏教に真剣に教えに耳を傾けていくと、そこに明らかになるのは、何か今まで知らなかったことや、新しいことではなく、私を言い当てている言葉が既にあったということです。
つまり私が自分で自分を理解する以上に、私の人間としての悲しさや愚かさが動かしがたい事実として明らかにされているのです。
それはまさに、「迷っている私の身の事実」に他なりません。
たとえ、すぐには理解できなくても、さまざまな機会を通して仏さまのみ教えに耳を傾けることに努めて頂きたいものです。