親鸞聖人は、五逆とか十悪に見られるような、具体的に社会を乱している悪人をあまり問題にしてはおられません。
なぜなら、それは人間の常識の問題だからです。
意図的に悪をなす人たちは、確かに世の中を乱します。
けれども、これらの人々の行っている行為は、人間が本来最も大切にしている社会の調和を意図的に破っているのですから、これは人間の常識の力で必然的に社会から排除されてしまう悪だといえます。
いわば法律や人倫の道にはずれた人たちは、社会の力で必然的に社会から取り除かれてしまいますし、またその行為が人々の目に悪だとはっきりわかりますので、これらの類の悪は人々にとってそれほど恐れることはないのです。
もちろん、これらの行為はたしかに悪いことではあるのですが、しかし、この人たちが国を滅ぼすとか、社会にのさばるとかいうことは、一般的にはありえません。
ですから、そのような意味でも、こういう直接的な悪人は、それほど問題にする必要はないのです。
むしろ問題は、自分は悪をしているという意識は全くなく、むしろ自分は善をなしていると思っている人がなす悪こそ、最も恐れなくてはならないのです。
親鸞聖人がことに問題にしている悪とは、まさに他人も自分も、悪を犯しているという意識のないまま、悪をしている人々の「悪」のことなのです。