「親鸞聖人の念仏思想」 (2)7月(後期)

 私たちは、親鸞聖人が「悪を好む」といわれるときの「悪」と、私たちが日常的に語る「悪」という言葉から連想する悪と、その内容が大きく異なっていることに注意する必要があります。

仏教では五逆罪を厳しく戒めているのですが、これは父や母を殺したり、僧侶を殺したり、あるいは人の和を破るようなことをしたり、仏法を謗るといった行為をいいます。

また十悪というのは、生きものを殺す、盗みをする・姦淫をする・嘘をいう・二枚舌をつかう・悪口をいう・おべっかをいう・貪る・怒る・邪見にふける、などの人間の最も行ってはならない十の行為をいうのです。

 普通私たちが悪を好むというときには、このような五逆や十悪を進んで行っているように考えます。

けれども、親鸞聖人が悪を好むといわれる場合の悪とは、基本的にはこのようなことではありません。

確かに、これらの事柄は悪であり、このようなことをする人たちは悪人そのものなのですが、親鸞聖人はこれらのことを意図的にする人々のことはあまり問題にしてはおられません。

端的にいうと、このような人たちは親鸞聖人が問題しておられる悪を好む人々の中心的存在ではないのです。

 では、このような人たちはどこに入るのかというと、それは倫理以前で、人間的自覚さえ未だない人というべきなのです。

もちろん、この人たちは偽の中に含まれるのですが、親鸞聖人がいま言おうとしておられる悪の次元とは、異なっていると見なければなりません。

 では、親鸞聖人が根本的に問題にしておられる「悪」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

また、なぜ仏教以外の教えが人を迷わせ、人に悪を勧める教えということになってしまうのでしょうか。