「親鸞聖人の往生観」(3)2月(前期)

 私たちが一般的に願っている往生は、本質的には双樹林下往生か難思往生なのです。

そのために結局は行き詰まってしまうことになるのです。

それ故に、真実の往生を求めるべきなのですが、それにはまずこの二つの方便の往生を離れなければなりません。

しかし、私たちの持つ本能的な願い、つまり現世の利益と未来の利益を求める欲望は、まことに根深く容易に離れられるものではありません。

いつもどちらかを願って生きているからです。

そのような意味で、この真実の行信による難思議往生は、まさにとらえることが難しいのです。

自らの力では、絶対に信じられない世界、といってよいのかもしれません。

そこで釈尊は、この信を獲ることを「難中の難これに過ぎたるはなし」と言われるのです。

 私たちが浄土を求める時、その浄土を私たちは自分の心の内に求めるか、そうでなければ自分の心の外に求めているといえます。

ところが、内と外を必死に探し回ったとしても、探している浄土はどこにも見あたらないといえます。

それは対象的に、あるいは固定的につかめるような、仏や浄土はどこにも存在していないということです。

 さて、ここで自分の心の在り方を問題にしてみますと、心そのものに見られる不思議さということに気付く必要があると思います。

たとえば、ここで「感情」について考えてみたいのですが、よく愛や憎しみということをいいます。

ところが、これは愛する心と憎む心が二つある訳ではありません。

同じ心が愛する心にもなれば憎む心にもなるのです。

要するに、一つの心がある縁にふれて愛する心にもなり、また次の瞬間には憎む心に転じるということです。

その「ある縁」とは、人とか出来事とかさまざまです。

そして、それによって、心がさまざまに変化しています。

したがって、愛にしろ憎しみにしろ、そういうものの実体を、自分の中にいかに探し回ってみても、見つけることなど出来ないのです。