「親鸞聖人の往生観」(2)1月(後期)

 もちろん、そのような理性や理屈で納得のいかないことこそを信じるのが宗教だという一面が確かにあることは事実です。

けれども、多くの場合、その不可思議さを求めないで、単に自分はこの問題に答えられないからといって逃げてしまうのです。

逃げるということは、問題を直視しないということで、無理に信じるか、それとも問題にしないかということになるのです。

それは当然で、浄土があるかないかと問われて、無いと言えば自分に信心がないことになりますし、だからといって本当に信じているか、と問い詰められますと、その信心はぐらついてしまいます。

 浄土に関して、私たちの心はそのようにぐらついているのが正直なところです。

そこで、私たちはそのような自分を励ますように、一生懸命に信じようとするのです。

さらにいえば、本心では疑っているのに、信じているのだと、一心に自分に言い聞かせるのです。

そういう在り方が、難思往生だといえるのではないかと思います。

私たちの大半は、この立場に立って、すなわち浄土は望遠鏡で探して、有るのか無いのかというような次元で、浄土の存在を考えてしまうのです。

 このような求め方は、問いそのものも、またその答えも間違っていることになります。

では、浄土とは何か。

この難思往生が否定されることによって、ここに親鸞聖人の、真実の行信の果としての、難思議往生という世界が出てくるのです。