「親鸞聖人の往生観」(2)1月(中期)

 双樹林下往生が錯覚であるとわかりますと、次に私たちが必然的に求めるのが難思往生です。

つまり現実の救いが不可能になりましたので、未来の救いを願うようになるのです。

先の双樹林下往生は、自らが仏と等しい清らかな心になり、その心を因として往生しようとするものでしたが、それが錯覚だとわかりますと、こんどは未来における救いの実現を、自分よりはるかに大きな力にすがることによって求めようとするのです。

もはや自分には、よくなるべき力は何一つないのですから、救いを外の力に求める、すなわち神仏に一新にすがる心が生まれるのです。

仏の大悲や神の会いを必死にこい願うのです。

これはただひたすら神仏にしがみついて、永遠の浄楽の世界に生きようとする姿です。

この場合、私たちは神仏を自分とは隔絶した、非常に遠くの存在として仰ぎ見ていることに注意したく思います。

 こういう信仰の構造は、浄土真宗のご門徒の中にも往々にして見られます。

たとえば、浄土教では西方に極楽浄土があると教えています。

そこでこの浄土のお話をしますと、それは天体望遠鏡で見られるのですか、と尋ねるのです。

あるいは本当にそのような浄土が存在するのかと問われるのです。

けれどもこのような問いは、本当のところ誰も答えられません。

しかも、もし住職がそれらの問いに答えられないとなると、

「それは浄土を信じていないのだ」

と、とられかねません。

そこで、私たちは

「必ず浄土はある」

と自らも信じ、他にも信ぜしめようとします。

ところで、このようなことは、実際的には誰もが非常に疲れるだけに終ってしまいます。

なぜなら、お互いが納得できないものを無理矢理に信じよう、信じさせようとしているからです。