「親鸞聖人の往生観」(2)1月(前期)

 双樹林下往生にし、本来的な立場からすれば、この世を清らかな国土にしようとする願いはありませんが、行道の方向からすれば、そのような願いをも抱いています。

その求道が、まことに仏に帰依した崇高な願いに基づく実践であったとしても、そこにもし世俗的欲望がほんの少しでも残っていれば、まさに「偽」の教えの持つ独善の罠に転落してしまうのです。

そして、今日の私たち凡夫は、どこまでいっても結局、自己の欲望を完全に払拭することはできないのです。

そうであれば、この世の中に仏の国土をつくろうとする願いは、努力を積み重ねることが、より一層の錯覚に陥ることにつながります。

いうまでもなく、親鸞聖人には念仏を称えてこの世を仏の国土にしようとする思想はまったく見られません。

むしろそういう考え方を根本的に否定しておられます。

なぜなら、そのような考え方に染まることが、結局「邪見驕慢悪衆生」になってしまうからです。

自分の教えこそが一番良い。

念仏は世界に通用するのだ。

そのように、独善的になるのが一番こわいのです。

しかし、そのような考え方がもっとも私たちにわかりやすく、関わりやすくもあるのです。

そこで、私たちの目の前に「福徳」を並べて往生を求めさせる方便がまずとられることになるのです。

それが双樹林下往生です。

最も入りやすいのですが、外道的実践は可能だとしても、仏道としてこの道を完全に実践することは不可能だといわねばなりません。

そこに次の方便の道が用意されることになる理由があります。