『真(ま)あたらしい いのちの朝(あした) 手をあわす』

 

 私たちの人生は生きる上で、誰もが必ず次の四つの限定を平等に受けています。

一は一回限りということ。

二はやり直しがきかないということ。

三は単独、つまり私の人生は私以外の誰の人生でもないということ。

四は必ずらず終わりが、しかも予期しない形でくるということ。

 このように私の人生は、一回限りで、反復が許されず、誰にも代わってはもらえませんし、どれほど永遠を願っても限りがあり、しかもそのいのちの終わりはいつ訪れるかわかりません。

まさに「無常」これが、私たち人間が生きている事実そのものです。

 こういう視点からとらえてみますと、「生きる」ということはとても大変なことだと言えます。

もちろんこの四つのことだけではなく、他にももっと多くの限定を受けているのでしょうが、少なくとも誰もが等しくこの四つの限定を受けながら日々生きている訳です。

 ところで、果たして私たちは自分が「生きている」という実感を持ちながら生きているでしょうか。

また

「毎日を生き生きと生きていると、自分でそのように実感できるような今日を生きておられますか。

あるいは、昨日を生きられましたか。

昨年、一年間を振り返られて『本当に生きた!』と、そう言えるほどの実感をお持ちですか。」

と問われたとしたら、どのようにお答えになられますか。

もしかすると、考えたこともなかったと言われる方が多いかもしれませんね。

私たちが日々生活していく上で、「生きる」と本当に自分で言い切れるような積極性をもち、あるいは充実感をもち得たときに、今日という一日を振り返ったり、あるいはこれからの一年を振り返ったりしたときに、『ああ、本当に生きた』と実感できるようになるのだと思われます。

そしてそこに、自然と手をあわすことから始まる一日が生まれていくのではないでしょうか。