「親鸞聖人における信の構造」5月(後期)

「南無阿弥陀仏」とは何でしょうか。

この念仏を親鸞聖人は「不回向の行」と理解されます。

この「不」とは、念仏は人間から仏に向かって救いを求めて唱える行ではないということを意味しています。

なぜなら、親鸞聖人は仏果に至るために、一心に浄土往生を願って念仏を唱え、ただひたすら阿弥陀仏の救いを求めながら、結果的にはどのような救いの確証も得られず、苦悩の奈落に陥ってしまわれました。

けれども親鸞聖人自身において、仏に向かっての、行も信も成り立たなくなったまさにその時に、阿弥陀仏からの声として

「南無阿弥陀仏」

が聞こえてきたのです。

ここで「南無」の語が非常に重要な意味を持ちます。

南無とは帰命という意味で、そのものを信じ、自らの一切をまかせる心だと解されています。

『正信偈』は、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

の語に始まりますが、この冒頭で親鸞聖人はまず

「阿弥陀仏に対し帰命したてまつる」

と表白されます。

そうしますと、阿弥陀仏と私の関係は「南無」の語によって結ばれる訳ですが、ここに阿弥陀仏が衆生を「南無」する場合と、衆生が阿弥陀仏に「南無」する場合の二種の関係が生じることになります。

その後者がいま『正信偈』にみられる、親鸞聖人の阿弥陀仏に対する帰依の心となります。

ところで、親鸞聖人にこのような「南無」の心が生じたのは、阿弥陀仏からの

「あなたを救う」

という声を聞かれた後です。

親鸞聖人が法然聖人の前に跪いておられる時、親鸞聖人の心はただ苦悩するのみであって、そこでは親鸞聖人から阿弥陀仏への信も行も成り立ってはいません。

その親鸞聖人に対して法然聖人は、阿弥陀仏の大悲を説法されました。

「阿弥陀仏があなたを救おうとしておられます。

阿弥陀仏があなたを救うために、南無阿弥陀仏と呼んで下さっているのです」

法然聖人のこの弥陀招喚の教えによって、親鸞聖人は阿弥陀仏の大悲を獲信されたのです。

そうであればこそ、衆生が阿弥陀仏に「南無」する以前に、阿弥陀仏が衆生を「南無」する働きがあるのであり、その「南無」こそが、選択本願の躍動のすがた、つまり

「南無阿弥陀仏」

なのです。