「親鸞聖人における信の構造」5月(中期)

さて、ここで釈尊と法然聖人の説法を重ね、私たちにとっての「浄土真実の行」とは何かを考えてみることにします。

この浄土の法を最初に必要とした凡夫が『観無量寿経』に登場する韋提希(イダイケ)です。

よく知られていますように、釈尊の晩年、王舎城に悲劇が起こりました。

王子の阿闍世(アジャセ)が父王の頻婆娑羅(ビンバシャラ)を殺害して王位を得ようとしたのです。

頻婆娑羅の妻であり、阿闍世の母である韋提希はなんとか夫を救おうと努力したのですが、その行為が発覚して、韋提希自身もまた阿闍世に捕らえられて牢獄に幽閉されました。

このどうしようもない恐怖と苦痛と悲嘆の中で、韋提希はこの心を救って下さいと釈尊に願うのです。

この時、釈尊は一般に考えられる

「韋提希を牢獄の中から外に救出する」

という在り方ではなく、韋提希をそのままにして、しかも瞬時に苦悩する心を破り、永遠の安らぎを与えておられます。

具体的には、

『観無量寿経』

に説かれているように、南無阿弥陀仏の説法が、韋提希の心を浄土を願う無限の喜びに転ぜしめたのです。

法然聖人と親鸞聖人の関係にも、全く同一の構造が見られます。

では、いったい韋提希と親鸞聖人において何が起こったのでしょうか。

両者の共通点は、釈尊と法然聖人に出遇う以前に、人間苦の根本問題を自らの力で解決しようと懸命の努力を重ね、しかもその結果、努力の一切が根底から破れて、かえってどうすることもできない苦悩に陥っている点にあります。

ここで、この二人に明らかになった真理は、自分はあらゆる迷いを一つも欠くことなく具えた

「煩悩具足の凡夫」

であり、この世は無常であり、殊に人間世界には一つの真実もなく、それ故に完全なる安らぎなどあり得ないということでした。

したがって、この時の二人は、心の奥底において、今こそこの苦悩を解決してほしいと願いながら、自らの意識面では、もはやどのような行為も成り立つことはなく、ましてや努力しようとする意志さえ完全に消え失せてしまっていたのです。

ところが、不思議なことに、韋提希も親鸞聖人も、真実の道を求めて懸命に努力し、この絶望的な状況に陥った時に

「南無阿弥陀仏」

の真の声を聞いておられるのです。