「親鸞聖人における信の構造」5月(前期)

 ここにおいて南無阿弥陀仏が、仏教における唯一最高の法ということになるのですが、この法の真理がまた唯一の例外を除いていかなる人々も知り得ないのです。

では、唯一の例外とは誰でしょうか。

それが、その国土の仏なのです。

仏のみが仏の心を知りうるからで、それ故に無限に輝く真如(阿弥陀仏と呼ばれる仏)は、十方世界の一切の生きとし生けるもの(衆生)を救うために各々の仏国土の仏に、まず

「南無阿弥陀仏」

の法を廻向し、その諸仏をとおして、南無阿弥陀仏を称え讃嘆せしめて、一切の衆生を救うべき本願を成就されたのです。

 ある時、釈迦仏は耆闍崛山(ぎしゃくせん)で三昧に入っておられたのですが、その釈尊が今までになく不可思議に輝き始められました。

そのお姿の輝きを不思議に思い、弟子の阿難が釈尊に

「仏は常に諸仏と念じあわれています。

今日のように清らかで悦びに満ちた世尊の輝きを、私は未だかつて見たことがありません。

必ずや最高の仏の法の中に住せられていることと思います。

その仏の法をお教え下さい。

とお願いしました。

 この阿難の問いに釈尊が

「自分がいま念じている仏法こそ、まさに不可思議にして、一切の衆生を悟りに至らしめる、唯一の大乗仏教の究極の教えである。

この教えに勝る仏法はなく、この無限の大悲の法を説くために、自分はこの世に生まれてきたのだ。

とお答えになり、ここに阿弥陀仏の本願が語られます。

 では、どのような法が阿弥陀仏から釈尊に廻向されたのでしょうか。

ここに「南無阿弥陀仏」と、一声の念仏が釈尊によって称えられ、釈尊の説法が始まるのです。

 阿弥陀仏は、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土へ往生させるために、阿弥陀仏の名号を衆生に称えさせています。

阿弥陀仏がその本願において、仏法の中から最高の宝を選択されましたが、その宝こそ仏果に至るための一切の善行を修め、仏果の功徳の一切を具している「南無阿弥陀仏」という名号だからです。

それ故に、衆生が一声「南無阿弥陀仏」と称える時、その称名は、衆生を惑わす一切の無明の闇を破り、仏果を願う衆生の志の一切を満たされるのです。

このように「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏より廻向された、選択本願の大行であり、真如そのものの功徳が満ちている宝の海です。

だからこそ、釈迦仏は説法において、南無阿弥陀仏を称え、その名号の法を明らかにして、釈迦国土の一切の衆生を阿弥陀仏の浄土へ往生せしめられたのです。