「親鸞聖人における信の構造」(2) 念仏と信心 4月(後期)

親鸞聖人は『無量寿経』を釈尊の出世本懐の経と呼んでおられます。

釈尊がお生まれになられたのは『無量寿経』を説き、阿弥陀仏の本願を明らかにして、

「南無阿弥陀仏」

の真理をこの世に伝えるためであったと見られたからです。

では、阿弥陀仏とはどのような仏さまなのでしょうか。

親鸞聖人はこの仏を

「光明無量・寿命無量」

ととらえられます。

一切の空間と時間を覆って、光輝いている仏が、阿弥陀仏なのです。

そうすると、このような功徳を有する仏は、ただ真如のみだといわなくてはなりません。

ただし、真如は虚空であって、この法性(法の真実性・法のすがたそのもの)は衆生には知り得ませんし、見ることも出来ません。

ところで、仏の大悲心とは、迷える人々を救い続ける心です。

そうすると、最高の仏である真如にこそ、真に無限の大悲心がましますのであり、したがってこの仏がまさに一切の迷える衆生を無条件で救い続けていかれるのです。

では、無限に輝き続けるこの仏は、どのようにして人々を救おうとされるのでしょうか。

真如法性のままであれば、私たちとの接点は存在しません。

たとえ人々を救おうとして真如が人々を覆うとしても、人々はその仏を知り得ないからです。

ここにおいて真如は、人々を摂取するために、真如の功徳のままで人々の現前にその姿をあらわさなくてはなりません。

ではそれは、どのような「すがた」なのでしょうか。

そのすがたこそ

「あなたを救うために、無限に輝く仏がすでにあなたの心に来っている」

と伝える言葉だといわなくてはなりません。

この「あなたを救いたい」との仏の願いが「南無」と発音され、また無限に輝く仏が「阿弥陀仏」と発音されるのです。

そうすると、まさに「南無阿弥陀仏」こそが、真如そのものの人々を救う姿なのだと言えます。