この言葉、本願寺8代目の門主であります、蓮如上人の御文章(ごぶんしょう)に出てくる一節です。
前後を入れると
「それ、八万の宝蔵を知るといふとも、後世をしらざるを愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを知者とすといへり。」
と述べておられます。
今の言葉に意訳すると、
「たとえ、お釈迦様が説かれたあらゆる教えを知っていたとしても、後生の一大事(私のいのちの問題の解決)に無関心な人を、愚者(おろかもの)というべきであります。
また、文字も知らないような人であっても、いのちの問題の解決に心をかけているような人は智者と
いうべきであります。」
となります。
そして、その後には、
「一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。」(意訳)
「(阿弥陀如来様の)信心の理由やその訳をしらなければ、(たとえ教えやありとあらゆる事を知っていたとしても)その人の人生において、その知識は何の役にも立たないことだと知らなくてはなりません。」
と続きます。
蓮如上人は、智者と愚者の境界線は、”わたしの”いのちの問題に心をかけているか否かである。
そして、いのちの行き先をたずねようともしない人は、阿弥陀如来の信心に出会うこともなく、何のために生まれ何の為に生きているのか知らずに人生を終えていくような、空虚な人生を送るのだと仰っているのです。
お釈迦様は、
「老・病・死」
という逃れられないいのちの姿を縁とされ、道を求めて出家し修行の旅に出られました。
遡ること2500年ほど前のことですが、人は今も変わらず、生・老・病・死の中を迷い生きています。
今を生きる私がどのようないのちを、どこに向かって生きていくのか、その方向、ベクトルを仏法に求め、阿弥陀如来の信心にたずねてまいりましょう。