『後世を知らざるを愚者とす』

「後世」というのは、読んで字の通り「後の世」、私がこのいのち終えた後に生まれゆく世界という意味です。

実は、この

「後世を知らざる人を愚者とす」

という言葉は対句的に述べられている文章の一節で、一方では

「後世を知る人を智者とす」

と示されています。

 つまり、自分がいのちを終えた後のことについて、知っている人は智慧のある人であり、知らない人は愚かな人だと言われている訳です。

このような意味で「後世」とは、私たちが人間として生きていく上で、まさに

「知るべきこと」

であり、したがってこのこと一つがはっきりすれば、人間として、いつ、どういう時にでも生きていけるのだと思われます。

けれども、もしこのことを知らなければ、長年学問を積み重ねて、どれほどの知識を身につけていたとしても、それは人間として生きている智慧を持っているとは言い難いと言われるのです。

 ところで、私たちは常に生の側から死を見ていますので、いつも死は霧の中にあるかのように、曖昧でぼんやりとしたものとしてしかとらえることができません。

また、自分の死後のことを考えても、あまり楽しくはありませんので、自分の死と向き合うということもほとんどありません。

 そのために、

「自分のいのちはいったい何処に向かっているのか」

といったようなことを真剣に問うということはなかなかしません。

そこで、仮に

「あなたはいつ死ぬかもしれませんよ。今のままで死ねますか」

と問われたとすると、大半の人は戸惑い、その問いの前にたたずんでしまうことになるのだと思われます。

 顧みますと、私たちはいつも生にとらわれ、死を恐れて、いろいろな不安を持ち、迷いを重ね、そのために時として迷信や俗信に惑わされて、未来に対する漠然とした焦りを抱えながら生きています。

そのような苦悩の根っこにあるものこそ、まさに生死にとらわれる心にほかなりません。

 「後世を知る」

ということは、自分のいのちを生と死の二つに見分けて、生に執着し、死を恐れる心を離れるあり方のことです。

それは、生活の中で、どれだけ行き詰まりを体験しても、そのすべてを受け止めながら生きる道を見いだしているということです。

 私たちは仏法に出遇えない限り

「後世を知る」

ということがないために、いつも生にとわれ、死をおそれながと、時には

「死に切れない」

と嘆くこともありますが、そのような人を愚者といわれるのです。

その一方、真の意味で仏法を聞くことを通して、死もまた私の身の事実として引き受け

「死に切れる」

ような今を生きる人のことを智者と語られているのだといえます。