イタリアに留学したとき、そこで自分を変えるきっかけになったことがありました。
いくらデザインを出しても、全く採用されず、ろくに授業も受けられず、段々気持ちがねじれてきて、日本へ帰ろうとしていたときのことです。
焼き物の世界に、人間国宝の富本憲吉先生という方がいらっしゃいます。
先生のお言葉に
「模様は模様を作らず」
というお言葉がありますが、その言葉自体は知ってはいても、どういう意味かわからずにおりました。
考えてもわからなかったのですが、そのときふと思ったのです。
今となってはお恥ずかしい話なのですが、それまでの私は例えば竹をデザインしようとしたら、まず本屋に行って竹の資料を集めていました。
そこで中国の水墨画の竹、日本画の竹、写真集など、いろいろな竹を見ながら描こうとしていたんです。
けれども、果たしてそれできちんとした竹を描くことが出来るのかということです。
私が入手していた竹の資料は、すでに本当の竹林から得た一つの模様だったんです。
その模様からまた新たな模様を作ることは出来ないはずなんです。
私がやるべきことは、竹をモチーフにデザインしたければ
「竹林に行け」
なんです。
そして、実際に竹を見て、きしむ音を聴き、落ち葉を文ながら、風に耳を澄まして、そこで弁当でも食べてゆっくりすればいいんです。
そこで何に感動し、何に驚いたか。
それを私が物に対してどう表現するかということです。
そして、その私の感動が、果たしてみなさんと共通のものかどうかということ。
さらに、その共有する感動を、みなさんが驚く技術でお見せ出来るかということが、実は大事なのです。
見て感動する「意志」と、それを表現する「技術」。
この両方が高い状態でバランスをとっていないといい仕事にならないのです。
そのことが分かり、私はその晩、慌ててデザインを20枚ほど作りました。
翌日提出したら、先生に
「素晴らしい」
と言われました。
腐っていた頃は恨みもしましたが、そのときは何といい先生に巡り会えたんだと思いましたね。
イタリアでの勉強を終えてからは韓国に行き、大学を受験しました。
ところが受験の際、
「君は沈という名字があるのに、どうして大迫という日本の名前で願書を出したのか」
と言われたんです。
大迫という名は私の正式名で、願書は公文書ですから、そう書いたのだと言いました。
すると
「君はこの学校で勉強する二年間で、日本の四百年の垢を全て洗い流して、韓国の魂を注入してもらいたい」
と言われました。
何てことを言うんだと思いましたね。
私のご先祖達は四百年前に日本に連れて来られました。
言葉も通じず、身寄りもなく、今日の食事、明日のいのちさえ約束されないような状況下で、とにかく役に立とうと、薩摩に必要な技術であることを示すために一生懸命頑張ったのです。
それを
「日本の垢」
と一言で片づけられたときには、さすがに腹が立って
「わかりました。もうこの学校には入学致しませんので結構です。」
と言って出てしまいました。
自分のことならともかく、ご先祖のことまでそう言われるのが我慢できなかったんです。
若かったんですね。