『やさしさとは 他人の痛みを 思いやる感性』

 人生は苦なるもの、なかなか私の思い通りにはならないものです。

人は皆、何らかの形で、心悩ますものを内に秘め、そのものと出会っています。

また、外見には見えませんが、心に痛みや傷をかかえていたりします。

しかも、同じことを見ていても、その感じ取っている世界はそれぞれに別々で、お互いを完全に理解し合うことは出来ません。

 我が家には、犬が二匹います。

一匹は外でクサリにつながれ、もう一匹は屋内でオリの中に入れられて、それぞれに過ごしています。

 毎日ご飯を持っていった時に、短い時間相手をするのですが、いつも

「申し訳ないな」

と思うことです。

それは、きちんと水と食事は与えているものの、クサリにつなぎオリの中に入れるという形で自由を奪い、一日の大半を孤独にして、同じ仲間と恋愛をしたり、共に走りまわることもさせず、その一生を過ごさせるということを余儀なくさせているからです。

人間と犬というそれぞれの境涯の違いから、会話も出来ず心も通じずといったことで、どうしようもありません。

悲しいことですが、これが犬と私の関係です。

 

「やさしきは仏のまなざし」

というフレーズがあったように思います。

痛ましい人間の営み、犬の一生も、仏さまのやさしさに出会うとき、仏さまの呼び声を聞きうるところに、共にそれぞれの現場を私の持ち場として引き受け、認める足場が見出せるように思います。

 それは、仏さまのみ手の中に

「あなたはあなた」

「私はわたし」

で、このような現場を頂いて、そこを務めているということです。

 やさしさを

「慈悲」

「慈しみ」

と理解しますと、それは仏さまが衆生の苦を除き、安楽を恵むはたらきとなります。

このやさしさに出会うことができれば、たとえどのような苦があっても、苦が苦とならない境地が生じます。

お念仏を深く喜ばれた

「妙好人」

と讃えられる源左さんが

「苦があって、苦がないからのう」

とおっしゃっておられますが、それはこのことを物語られた言葉かと思われます。