「親鸞聖人にみる十念と一念」9月(後期)

 ここにおいて、獲信者の念仏道が問われることになります。

その念仏は、信心を喜ぶ感謝の声であることはいうまでもありませんが、同時にこの念仏は、いまだ念仏を知らず、迷い苦しむ人々に対する念仏の伝道になります。

あたかも自分が念仏の行者から、念仏の真実功徳を聞いて、念仏者に導かれたように、自分もまた、迷い苦しむ人々に念仏の真実功徳を説法するのです。

これが獲信の念仏者の伝道であり、このような仏道を歩む者が、真の仏弟子と呼ばれるのです。

『無量寿経』にみられる、十念・一念の語は、浄土教者にとって、自らの往因を決定せしめる重要な思想であり、その

「念」

の内実は、完全に同一でなければなりませんでした。

ところが親鸞聖人の思想においては、本願の十念は称名、成就文の一念は信心、弥勒付属の一念は称名と解釈されていて、この三カ所の念には、同一性が見られませんでした。

その親鸞聖人の

「念」

の解釈が、なぜ『無量寿経』や善導・法然教学における、十念・一念の思想と矛盾しないかが問われたのでした。

浄土真宗の教えでは、私の往因は、獲信の一念に決定し、その獲信は弥陀の名号を聞くことによって得ます。

その弥陀の名号は、念仏者の説法によって聞かされ、その説法の内容は釈尊が説いておられる弥陀の名号の功徳です。

そしてその名号は、弥陀から釈尊に伝承されました。

これを阿弥陀仏の救いの構造としてみれば、阿弥陀仏は一切の衆生を救う大悲心を成就されました。

それが第十八願の信楽であり、十念とはその信楽が南無阿弥陀仏となって十方の世界に響流されているすがたです。

弥陀と釈尊が相念じあわれることによって、この名号が釈尊の心に映じ、釈尊はこの大悲心こそ、釈迦国土の一切の衆生を救済する唯一の仏法であると覚知され、自らの出世本懐の法として、南無阿弥陀仏を一声称え、その名号の真実功徳を説法されたのです。

この説法が、第十七願の諸仏称名であり、弥勒付属の

「乃至一念」

です。

こうして、一切の衆生を摂取する阿弥陀仏の大悲心が、一声の念仏となって、衆生の心に徹入するのです。

この

「念仏を称えて往生せよ」

との念仏の法門が、七高僧を通し親鸞聖人に伝承され、親鸞聖人によって説法された弥陀廻向の法が、称名となっていま私に聞こえているのだといえます。

その念仏は、弥陀の南無阿弥陀仏(本願の三心と十念)、釈尊・七高僧・親鸞聖人の南無阿弥陀仏(付属の行の一念)が、今まさに私の心に響いて、私の心と呼応しているのです。

ここに成就の一念が求められるとすれば、成就の一念はまさしく、私が聞信する

「信の一念」

でなければならないのだといえます。