現代という時代を一言で言えば、それは
「科学の時代」
ということが出来るのではないかと思われます。
では、科学の時代といわれるような現代にあって、なぜ宗教が必要なのでしょうか。
また、浄土経典に説かれる西方に浄土があるとか、南無阿弥陀仏と念仏を称えたならば仏になるというようなことは、子どもの頃から科学的なものの見方をすることを無意識に刷り込まれてきた現代の人々にとって、果たして信じるに足ることなのでしょうか。
このようなことについしばらく考えてみたいと思います。
現代の特徴は、科学的な知性によって誰もが人生を過ごしていることだといえます。
また、今日の繁栄は、科学技術がもたらした成果の積み重ねの上に成り立っています。
ところが、その科学時代の現代に、一方で非常におかしな現象がおこっています。
この現代が、科学の時代だというのであれば、科学の思想とは絶対に相反するところに位置する迷信は当然社会から消え去っていなければならないはずです。
にもかかわらず、ある種の迷信とも思われる宗教が、特に若い人々の間で盛んであったりします。
一時期はご利益信仰が非常に隆盛をきわめ、これを信じたらお金が儲かるとか、これを信じれば病気が治るとかいうことを説く教えに人々が集まりました。
もちろん、今でもそのような教えは決して廃れてはいませんが、それ以上に現代社会で注目されている宗教は、物質的なご利益とは少し違った、心の隙間を癒したり、あるいは得体のしれない不幸を除いたり、不安や恐れ、不吉なことを消すことを説くような宗教が非常にはやっているように見受けられます。