「念仏の教えと現代」3月(後期)

この真理を私たちにはっきり教えて下さった方が、天親菩薩という方です。

天親菩薩は

世尊よ、我れ一心に

「尽十方無碍光如来」

に帰命したてまつる

と述べておられます。

「尽十方無碍光如来」

とは、時間的な全てをおおい尽くすと同時に、空間的な全てをおおい尽くして無限に輝いている如来という意味です。

したがってこのひと言は、宇宙の根源、それを仏教の言葉でいうと、真如とか如来とか言い表すのですが、その完全なる如来に自分は

「帰命」

するといわれるのです。

帰命とは、そのものに自分のすべてを

「まかせる」

という意味です。

そうすると、この天親菩薩の言葉は、宇宙の一切を完全におおい尽くして無限に輝いている、その如来に自分は自身の一切をお任せしますと表白している言葉だということになります。

自分が、もし自身の全てを託して信じることのできる如来がましますとすれば、それは宇宙の一切をおおい尽くして、時間的にも空間的にも無限に光輝き、その根源から自分をしっかりと抱き、摂め取って下さる如来を私は信じる、それ以外に帰命するものは存在しないと、天親菩薩は言われているのです。

天親菩薩は、お釈迦さまに向かって表白されます。

「釈尊よ、私は信じます。

尽十方に無限に輝くその如来を信じるのです」

と。

この

「帰命尽十方無碍光如来」

という言葉は中国での意訳です。

そこでこの言葉をインドの言葉に戻しますと、

「南無阿弥陀仏」

になります。

「南無」

つまりナムとは帰命の意で、

「阿弥陀仏」

はアミターユス、アミターバという二つの言葉から成り立っているのですが、前者が無量の命、後者が無限の光の意です。

すなわち、無量の寿命と無限の光明をもった仏という意味が、アミターユス、アミターバという言葉になるのです。

したがって、帰命尽十方無碍光如来と南無阿弥陀仏との違いは、意訳と音写の違いだけで、その意味は全く同じです。