幸福をもたらす神々に私たちは必死にしがみついて、しかも最後はその神々にいとも簡単に裏切られることになります。
それも、神の力を今こそ必要とするまさにその時に、無情にも神に裏切られることになるのです。
ここで、最大の問題が残ることになります。
それは
「臨終」
ということが中心になるのですが、そのような臨終を迎えた人間にとって、究極的なみじめさ、どうしようもない哀れな姿で苦悩し、耐えがたいような苦痛の中に自分自身が落ち込んでいたとしても、その自分が無限の安らかさを得ている、あるいは破れることのない安らかさ、自分自身が無限に輝いている心に成ることが可能なのかどうか。
そのような心に至る道は、いったい有るのか、無いのかということです。
このような意味で、親鸞聖人が究極的に求められた仏道とは、まさにその無限の安らかさ、輝きの中に生きる道は何かということであったのだといえます。
そして、ここで出遇われた宗教こそ、親鸞聖人によって説かれている
「念仏の世界」
だと見ることができるのです。
これは自らの死に直面して動転している心が、そのまま無限の安らかさを得る、その可能性を問うことになるのですが、ここで私たちは自分の心に一つの問いを起こす必要があります。
それは、自分が本当に信じることが出来るもの、自分自身の全てを完全に任せることが出来るものは何かという問いです。
自分がたとえどのような状況に陥ったとしても、従容としてこの自分そのものの全て任せてしまう、言い換えるとそのものの心の中に飛び込んで行くことが出来る、
「そのもの」
とはいったい何かということを真剣に問うのです。
ここで私たちは、いま自分は全宇宙の中で、その一点として存在していることに気付くことが大切です。
これは、空間の全てと時間の全てに包まれて、全体の中のこの一点に自分がいるということです。
その自分が、もしこの自分の全てを任せることが出来る、そのようなものがあるとすれば、それは何かということが今問題になっているのです。
この願いが成り立つ可能性はただ一つ。
それは、宇宙そのものの根源、まさに宇宙そのものの願いといっても良いのですが、宇宙そのものが持っている願いの根本と、私自身の願いの根本がまさに完全に一体になる、そのような自分が生まれることによってのみ可能になるのではないかと思われます。