「念仏の教えと現代」3月(前期)

私たちの世界の全てが、無常であり無我であるということは、一応頭では知っているのですが、にもかかわらず自分だけは幸福に生きることができると思っているのもまた確かな事実です。

けれども、自分だけは幸福に老いを得、自分だけが幸福な死に方が出来るのだと思っている間は、無常の真理を知り得ているとはいえません。

それは、自分の心が自分の真の人生に反逆していることになるからです。

改めて言うまでもなく、私たちの人生は老病死の方向に流れているのですが、その一方で私の心はむしろ私を逆の方向に進むことを願っています。

具体的には、私たちは老いの中でも若さを保つことを願い、病いの中にあっても安らぎを得ることを願い、たとえ死を迎えたとしても本当に輝かしく明るく、そして喜びをもって死ねることを願っているのだとすれば、それはむしろそのことがかえって自分自身を本当の意味で苦しめることになるのだと言わざるを得ません。

そこで親鸞聖人は、人間はつまるところ、幸福を求めながら現実には一人で惨めに死んでいかなくてはならない、これが私たちの偽らざる人生の相だといわれるのです。

これは『教行信証』の化身土巻に引用されているのですが、その中に現代の占いなどが説いている星占いのようなことが書かれています。

また、この世の中には無数の神々がましますが、多くの神々はそれぞれ人々に幸福をもたらすということが述べられています。

そこで人々は、自身の幸福を得るためにその神々に祈りを捧げることになるのですが、実は親鸞聖人は神々が人々に幸福をもたらすという事態に対しては、あえて否定してはおられません。

いろんな神々が人類に幸福をもたらして下さるのであれば、それはまことに結構なことに違いないからです。

では、人々が神々によって幸福をたくさん与えてもらったとして、その人は最後にどのような結末を迎えるのかということを親鸞聖人は極めて重要視されます。

何故なら、多くの幸福をもらった人が最終的にたどり着く姿は、等しく老いて病んで、そしてついにはどうしようもない醜い姿になって死んでしまう、あの天人の臨終とあまり変わらないからです。

つまり、どれほど神々に祈りを捧げ、幸福な人生を過ごせたとしても、最後にはそのような痛ましい姿しか残らないのだということを直視せよと、親鸞聖人は私たちに教えておられるのです。