「念仏の教えと現代」2月(後期)

仏教で

「もろもろの悪をしてはならない。

もろもろの善はすすんで行いなさい。

という場合には、自分を中心にした善悪ではなく、本当に仏法というのを基準にした善と悪、その法にしたがっての善が求められているのです。

そうすると、自分を中心にした善行をなすことは可能なのですが、一切の人にとって平等になる、自分や自分の家族、仲間の利益を後にしてでも他を救うような善をなすことが求められたとすると、そのような善の実践はなかなかなしえなくなります。

ここに本当の意味での仏道を歩むことの困難さがあります。

善を行おうとして、それが出来ない自分の姿がここに露になってくるのです。

したがって、本当に世界を平和にするような善をお互いがもとめられながら、実際にはむしそれとは逆の、かえって争いの原因を作るような行為をしてしまうのです。

そうだとすると、人間には善は成し得ない、それが自分の姿だということになります。

親鸞聖人は、第一の心の安らかさに対して、人間は究極的には安らかになれないとされたのですが、第二の善をなさねばならないということに対しても、そういう真実の善は自分には出来ないという心が、親鸞聖人の中に今ひとつ生じました。

そうすると、最後の幸福な生き方がもう一つ問われることになります。

これはすでにお釈迦さまが答えを出しておられます。

既に述べたように、生という面からのみ人生を見ると、幸福をどこまでも積み重ねていくことが出来ます。

老いの中でいかな幸福に生きることができるか、老いの中でもこのように素晴しく生きることが出来る。

また病にかかっても、このように病を克服することが出来る。

そして、お互いにこういうような安らかな死を迎えようではないかと。

確かに、諸行は無常であり、諸法が無我であり、涅槃寂静だというような心になることができて、仏さまと同じような心の状態になることが出来れば安らかな心を得ることが出来ますし、本当の意味での幸福をつかむことが出来るかもしれません。

けれども、たとえどのようにバラ色に彩られた老病死が語られたとしても、お釈迦さまは悟りの境地に至ることの出来ない者にとって、この世の中は

「一切皆苦」

であると説かれます。

人生がなぜ一切皆苦であるかというと、私たちは自分たちのこの世界の一切が無常であり、無我であるという真理を、実は本当に知り得ていないからです。