『咲いた花にもいのちあり散った花にもいのちあり』

お花見の時節となりました。

お弁当を持ってお出掛けされる方も多いことでしょう。

満開のさくら見ると心踊らされ、散っていく花びらに何かもの悲しさ感じる・・・。

さくらは短い期間の中で、そういった

「諸行無常」

というものを私たちに感じさせてくれます。

そのように私たち日本人の無常感は、盛んなるものが衰え、形あるものが滅びゆく、

「侘(わ)び寂(さび)」

というところで捉えられているところがありますが、本来の仏教の

「無常」

とは、盛んなるものが衰え、形あるものが滅ぶことももちろんですが、逆に衰えているものが元気になることも

「無常」

であり、つまり

「侘び寂」

などの感情的なのもではなく、すべてのものは移り変わっていくという真理を表わすのが

「諸行無常」

ということです。

世の中のすべてのものは、とどまる事なく移り変わっていきます。

もちろんこの私も例外ではありません。

今のあなたも、実はもう読む前のあなたとは違い、髪の毛も数本抜けているかもしれませんし、細胞レベルでは随分入れかわっているのだそうです。

とにかく、この私は一瞬一瞬のいのちを生きているのです。

しかもそのいのちは、無数、無量のご縁(おかげさま)によってあり得ており、いろいろなつながりのなかで連帯し合って、共に生きあっているのです。

決して一人では生きてはいけませんし、一人では生きられません。

あの立っている桜の木は、見えているだけの所で立っているのではありません。

地中には広く深い根が広がっていて、その根から養分を吸収したり、太陽からの恵みにより光合成したりして立っています。

ひとつの

「いのち」

が存在するということは、それを支える広く深い場が必要であるということです。

そういう意味では、この私の

「いのち」

を支える場は、空間的にも時間的にも思いも及ばない程に広がっており、多くのものに支えられ、連帯し合って存在しています。

また散った花はそれで終わりではありません。

大地が受け止め、他の

「いのち」

を支える大いなる自然の場に抱(いだ)かれていきます。

私達も死んだら終わりではありません。

阿弥陀如来のはたらきにより、

「おかげさま」

と恵まれた

「いのち」

をよろこび、念仏を申す人生を歩む人は、この世の縁が尽きるとき

「浄土」

がしっかりとわたしを抱(いだ)きとめてくださいます。

そしてこの迷いの世に還(かえ)って、人々をお念仏よろこぶ人に育てるため教化(きょうけ)します。

そういう

「いのちの連帯性、連続性」

の中で共に生きているんだということを、お釈迦さまは

「縁起の道理」

と説かれました。

とはいえ満開の桜の花を見て、

「散らずにもう少し長く咲き続けて、私達を楽しませて欲しい・・・」

と、考えてしまうのは私だけでしょうか?

「諸行無常」

といただいていながら、

「おかげさま」の

「いのち」

といただいていながら、この世は苦悩に満ちた迷いの世界であると聞かされていながらも、やはり

「この世の生」

に執着し、自分に執着してしまうのは煩悩のしわざであり、そのようなあらゆる煩悩を身にそなえたわたしだか

らこそ、阿弥陀如来は大いなる慈悲のお心で

「浄土」

を建立され

「本願」

をおこされたと、親鸞聖人はご自身の事として

「歎異抄」

の中で仰せになられています。

まことにもったいなく、ありがたいことです。