親鸞聖人における「真俗二諦」1月(前期)

親鸞聖人の根本的立場は

『教行信証』の

「教巻」

に明らかなように、浄土真宗を唯一の真実の仏教と見ておられる点にあります。

そして、この浄土真宗という教えの最大の特徴は、

「往相(おうそう)・還相(げんそう)」

という二種の廻向から成り立っていることだといえます。

ところで、親鸞聖人は、往相・還相の廻向と呼ばれる場合、

「往相・還相」

という言葉が重要なのではなくて、迷える衆生を浄土に往生せしめ、その浄土の衆生を再び穢土に還来せしめる、阿弥陀仏の

「廻向」

が浄土真宗のすべてであると見ておられます。

したがって、私達凡愚の仏果への道は、阿弥陀仏の廻向によってのみ可能なのであって、もしこの立場をほんの少しでも動かしたとすると、親鸞聖人の思想は根底より崩れてしまうことになるといえます。

では、なぜこのような見方が親鸞聖人に成り立ったのでしょうか。

親鸞聖人は、自分の生きる世界が末法の世であることを強く意識しておられます。

末法とは釈尊の教のみが残り、行も証も廃れた時代ですが、そのため末法の世を生きる凡夫はただ不実のみであって、仏道に値する善行は何一つなし得ないことを見据えられます。

このことから、親鸞聖人の人間観の特徴は、凡夫における真実性の全面否定にあると言えます。

したがって、そのことにおいては、一つの例外も認めておられません。

いま親鸞聖人の著述から、それられの言葉をいくつか拾ってみると次の通りです。

・一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。

虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

・無始よりこのかた一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。

法爾として真実の信楽なし。

・微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して真実の回向心なし。

清浄の回向心なし。

・浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし。

・凡夫といふは無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえずたえず。

このように、親鸞聖人は徹底して私たちには清浄なる真実心はひとかけらもないことを明らかにしておられます。