昨年、祖父の七回忌の法要を勤めました。
在りし日の祖父を偲びつつ仏前で手を合わせ、阿弥陀さまの本願のお心を味わう尊いご縁をいただいたことでした。
祖父の法要を営んでいる最中、私の隣に座っていた従兄弟(母の妹の長男)が、手を合わせながらこうつぶやいていました。
『おじいちゃん、ありがとう。南無阿弥陀仏』と。
ぽつりとつぶやいた言葉ではありましたが、大変印象に残ったので、法要が終わってからその従兄弟に尋ねてみました。
『さっき、「ありがとう」って言っていたよね。
どんなことをおじいちゃんに感謝していたの?』と。
すると、従兄弟はこう答えてくれました。
『あぁ、あれは
「おじいちゃん、生まれてきてくれてありがとう」
っていう気持ちを伝えたんだよ』と。
これを聞いて、私は一瞬
「反対なのでは?」
と思いました。
肉親の間で
『よく生まれてきてくれたね。本当にありがとう』
というような言葉が出るのは、一般にはお父さんやお母さん、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんが、子どもや孫を可愛がる中においてです。
ところが、これはその逆で、孫から祖父に対して発せられたのです。
孫が、おじいちゃんに向かって
『生まれてきてくれてありがとう』
と言っている訳ですから、私は不思議に思ったので、従兄弟に
『どうしてそう思ったの?』
と、重ねて尋ねてみました。
すると
『自分たちは、当たり前みたいに生きているけど、それは決して当たり前じゃなくて
「おじいちゃんがいたからこそ自分が今ここにあるんだ」
と、手を合わせることで強く感じた。
今、自分が自分であるのも
「おじいちゃんが僕に名前をつけてくれて、支えてきてくれたからなんだ」
と、気づかされた。
そしたら、自然と手を合わせながら、
「ありがとう」って言っていたよ』
と、答えてくれました。
私とその従兄弟の名前は、亡くなった祖父がつけてくれたもので、私は自分の名前を書くたびに、
「祖父が心からの願いを込めてつけてくれたものなのだ」
と、私自身のいのちの尊さ・有り難さを深く感じます。
きっとその従兄弟も、私と同じような気持ちを
「祖父を偲んで、手を合わせる中で感じたんだろうな」
と思ったことでした。
私の『いのち』の前には、私を生んでくれた『いのち』があり、その『いのち』の前にも、その『いのち』を生み出した『いのち』がありました。
そして、それぞれが
『生まれてきてくれてありがとう』
と優しい気持ちをもって自らが生み出した『いのち』を育んで下さったからこそ、今ここに私の『いのち』があるのだと言えます。
このような『いのち』の繫がりと、そこには目には見えない深い縁があったことに気付く時、素直な気持ちで
『生んでくれてありがとう』
と言わずにはおれない気持ちが胸にあふれます。
祖父との命のご縁、従兄弟の感謝の言葉と姿を通して、尊い仏縁に出会わせていただいたことでした。
これからも、『いのち』の縁を大事にしてまいりたいと思います。